校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.13
 昭和28年以降、矢向の情景

 昭和28年6月、江ケ崎陸橋から望む矢向6丁目の全景
(パノラマ)

                                         撮影:土田泰敏さん(矢向)

  
       


 田植えを終えた水田、その中央を左右に江戸時代に潅漑用水路として造られたニケ領用水が流れる。右手前の引き込み線の線路は蒸気機関車用のため架線がない。矢向6丁目にまだビルらしきものもなく、のどかな光景が広がっています。現在、江ヶ崎陸橋から見たこの光景は右側が目の前にビルが建ち、定点撮影できないほど変わっています。
 一時の二ケ領用水は家庭や工場の排水路と化すドブ川でしたが、近年は浄化した流れになりつつあり、すべて地下埋設の下水路にその姿を変えました。



上の写真の右隅に下の写真の左隅がつながります。


         新鶴見操車場とSL




昭和28年、江ケ崎陸橋から望む新鶴見操車場










   新鶴見操車場

 京浜地区を発着するすべての貨車を行き先別に仕分け、再編成するのがここ新鶴見操車場。京阪神の吹田操車場と並んでわが国鉄の貨物輸送の要でした。
 鉄道輸送全盛の頃は、何台もの蒸気機関車が真っ黒な煙を吐きながら貨車を押したり牽引したりして車両編成作業をしていました。
 矢向の町はこうした蒸気機関車が出す黒煙と石炭の匂いが家の中まで入り込み、洗濯物は黒くなったり、引き込み線沿いの樹木が枯れてしまったりで当時の矢向の人々を悩ませたものでした。



写真左の新鶴見操車場の現跡地

2013.11.3
 撮影:石川佐智子さん(日吉)



昭和30年、デゴイチ(D51810)

踏切は尻手短絡線の江ヶ崎踏切。


昭和28年、代掻きの赤毛の朝鮮牛







昭和28年、下駄履きの女の子がゆく



     昭和32年、日枝神社の宮神輿がゆく

 右下は二ケ領用水。神輿を担ぐ男や見物人の足元を見ればみな裸足です。そう、当時は舗装道路など殆どなく、砂利道を裸足で走り回っても危険ではなかったのです。




  
        矢向日枝神社と市場神代神楽

              
                     提供:萩原諄夫さん(矢向)



  江戸時代の矢向日枝神社は近郷7カ村の鎮守

 日枝神社は江戸期の天保末期から矢向村一村の鎮守になりましたが、それ以前は矢向、江ケ崎、市場、塚越、古川など近郷7カ村の鎮守。
 茅葺きの社のこの写真は、昭和33年、改築直前の撮影です。



例大祭に神代神楽と歌舞伎を興行する神社

 矢向の日枝神社(第20世宮司・萩原諄夫さん)では父・武典さん(第19世)まで代々、例大祭に神代神楽とともに歌舞伎を興行します。
 特に武典さんは本場、歌舞伎座の役者「芸名・中村芝延)となって修業したこともありました。祖父・宣通さんは芸名「市川連之助」を名乗っていました。
 第20世宮司・萩原諄夫さんは鶴見区で唯一残る「市場神代神楽」の土師流郷神楽(はじりゅうさとかぐら)家元として後進の指導や保存に努めています。



神代神楽「黄泉醜女(よめつしこめ」の場面










歌舞伎「野ざらし」の場面を演ずる
市川連之介(本名・萩原宣通)

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