昭和初期の矢向の人たち



          昭和3年、鶴見町町会議員の葬列

 通りは良忠寺の向かい側、現矢向3丁目3番あたり。後方の茅葺き屋根は金子米店、一軒おいた手前は現笠原豆腐店、足袋屋。右手に二ケ領用水が流れ、野菜や食器を洗う木製の洗い場が見えます。

  提供:森本祐康さん(矢向)



昭和3年、矢向日枝神社の鳥居再建

提供:江ケ崎町内有志















    戦時中の矢向の人々




  昭和17年、矢向幼稚園の遠足で女優・芦川いずみさんが井の頭公園へ

 中列左から3番目が芦川いずみさん(本名芦川幸子)。のち松竹歌劇団付属音楽舞踊学校に在学中、映画監督・川島雄三氏に見出されて女優に。「陽のあたる坂道」(田坂具隆監督)などに出演し活躍。現在俳優・藤 竜也夫人。中列左から8番目は彼女と中学時代まで友達だった永井喜久子さん。

  提供:永井喜久子さん(矢向)



  昭和17年、神輿の担ぎ手が足りない祭り

 青年たちはふるさとを離れて戦地へ。日枝神社の宮神輿をかつぐ人手もままならない。左の店は井上酒店、右が金子自転車店、右手前に鈴木石材店。
  提供:鈴木重利さん(矢向)






    昭和19年夏、矢向小学校の学童疎開

 いよいよ戦争が激しさを増し、不気味なB29の音を連日耳にするようになった昭和19年。矢向国民学校(現矢向小)では空襲から逃れるため縁故疎開の児童を除く4年生から6年生までの全児童が神奈川県足柄上郡桜井村(現小田原市栢山)に疎開しました。
 授業は
桜井国民学校(現桜井小)の校舎を借りて行われ、宿舎は善栄寺というお寺でした。

  提供:鈴木重利さん(矢向)

        戦中・戦後の地域活動



               昭和17年、第1回地区運動会

 「この戦時下に運動会とは?」 と思われるかもしれませんが、在郷軍人会矢向分会が戦没者慰霊祭を兼ねた第1回地区運動会を矢向小学校建設予定地で開きました。
  提供:鈴木重利さん(矢向)



    昭和21年、皆で豚を飼って栄養補給!

 翼賛壮年団矢向・江ヶ崎分団の神田班の人たち。矢向では養豚場は神田町(矢向6丁目)と本町(矢向3丁目)に、江ケ崎は黒川宏さん宅付近に養豚場がありました。

 提供:鈴木重利さん(矢向)

 
  養豚で動物蛋白を摂った終戦後

 深刻な食糧不足の終戦直後、米・野菜・魚・砂糖・味噌・塩など殆どの食糧が配給制でした。肉類など滅多に食卓にのることはありません。
 そこで、翼賛壮年団矢向・江ヶ崎分団では動物性蛋白質を摂るために団員が協力し合って3カ所に養豚場を作り、各10頭ほどの子豚を飼いました。養豚場ごとに2人1組の当番が家々の残飯や食堂の食べ残しを自転車で回収して歩き、豚の餌にしました。
 こうして手塩にかけて育てた成豚は屠殺場で精肉にしてもらい、それを毎戸に配給し栄養不足を補ったのでした



残飯の必要性を図解で説明する分団員

提供:鈴木重利さん(矢向)


   昭和24年、矢向宮本町子供会「横浜こばと会」

 矢向宮本町は現矢向4丁目、子供会「横浜こばと会」(会員200人 会長・中谷喜一さん)が最願寺本堂で第1回子供討論会を開いたとき。藤江祐憲住職は子供会運営に非常に協力的で本堂をいつも集会場として貸してくださいました。
  提供:中谷喜一さん(矢向)



      昭和25年、日枝神社で映画ロケ

 映画「母なれば女ならば」(主演女優・山田五十鈴、男優・神田隆)のロケが日枝神社で。中央の女性は山田五十鈴。
  提供:中谷喜一さん(矢向)



         昭和25年10月、矢向幼稚園の運動会     提供:矢向幼稚園

足踏みオルガンの音に合わせてお遊戯。園庭の前に二ケ領用水が流れ、左手の家はまだ茅葺きです。

TOPに戻る

NO.13 へ

校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

画像をクリックすると、拡大されます。拡大後は左上の戻るボタンをクリックしてください

NO.12
 昭和期の戦中・戦後の矢向