潮田村の“埋め立て新田”の広さは、市内第2位



 大正期、人力による海岸埋め立て工事情景。波との闘いの難工事、ひとたび津波や台風がくれば、その苦労が水の泡……。
  提供:林 正己さん(仲通)

 江戸期から潮田村は海岸線を埋立てる新田開発に力を注いだ村でした。明治期には村内の東から荒井新田、弁天下新田、小野新田、浜田新田と並び、その広さは約30町歩(約30ヘクタール)に及び、横浜市内では中区の吉田新田に次ぐ広大な埋立て新田でした



昭和9年、埋立地への足、鶴見線が全線開通。電車が国道駅に向かう

提供:林 正己さん(仲通)
 

  
        扇島海水浴場と船溜
(ふなだまり)



        昭和27年、扇島海水浴場       提供:酒井邦明さん(寛政町)

 扇島は北を京浜運河、南を東京湾に面した人口島で、横浜市鶴見区と川崎市川崎区に属しています。扇島の周囲は「遠浅、水がきれい、近い」と3拍子揃った海水浴場として夏場20万人の人出で賑わい、春は潮干狩りの名所でもありました。



昭和10年、扇島海水浴場の正門

提供:林 正己さん(仲通)
     


               気になる町角



         昭和14年、川崎運河の船溜   提供:今津功臣さん(平安町)

 運河をはさんで川崎市川崎区京町と鶴見区平安町とに分かれ、運河を往来する船は運河の終点、船溜で荷物の積み下ろしをします。で、ここを「物揚げ場」と呼びます。
 写真正面は釣り船屋。川崎運河は埋め立てられ、今はありません。



昭和8年、仲通1丁目の酒類卸問屋、江戸屋本店の建物を「江戸の湯」と言い、その建前

 提供:平川忠正さん(仲通)

 祝いの投げ餅が大量に振る舞われるとの噂を聞いて、たくさんの老若男女が集まりました。
 江戸屋本店前のまんじゅう屋の奥さんも投げ餅を夢中で拾い、エプロンの裾を袋にしていっばい詰めて店に帰ったら、店の売り上げを空き巣にごっそり盗られていたという。



     昭和15年、東屋酒店の歳末大売出し
  提供:酒井邦明さん(寛政町)

 右手に高く積んである薪は貨車で運ばれてきたもので、酒類と燃料を併売していました。福引の景品は1等に醤油1斗樽、3等に上等木炭。


        焼土から老舗の復興
提供:中村政夫さん(向井町)


昭和9年、大正12年創業の中村屋酒店

店頭に並ぶのは店主・中村専二郎さん(右から3人目)、前掛け姿の3人の従業員、左端に店主の妻、隣の女の子は3代目・中村政夫さんの母、後方にお手伝いの女性
 



昭和20年8月、この年4月15日の川崎・鶴見大空襲は潮田地区を総なめ。そこにたちまち店舗兼住宅の中村屋酒店が建ち、一枚の板に店名を記し営業

 空襲後の潮田地区は、1週間ほどチロチロと真っ赤に燃える炎、くすぶりつづける焼け跡の煙、きなくさい臭いが漂っていました。
 中央の女性は代目・中村政夫さんの祖母。右手に半地下の防空壕が見え、左手の長方形の金属は大事な売掛帳簿が入っていた金庫です。



昭和29年5月、生垣のある住宅地に復活した向井町通り。左手が中村屋酒店

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NO.6
昭和期前半、潮田地区の情景

校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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