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校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

MAP:潮田地区



     明治期の町田消防組第2部。町田村立尋常潮田小学校の校庭片隅

 当時、消防ポンプや消防器具の置場と火の見やぐらは、町田村立尋常潮田小学校の校庭の片隅にありました。写真左手の建物は、町田村字潮田2074番地、現在の2丁目です。この写真の原版を見ると、右手2階の明かリ取り越しに2人の女性が覗いています。当時はまだ写真撮影が物珍しかったようです。
 提供:荒井久夫さん(潮田町)
      


  明治15年(1882)、潮田の海苔干し場   提供:国田隆稔さん(馬場)

 海苔の養殖は潮田が初めて。ワラで干し場をつくり、海苔すきをしたスノコを一枚ずつ並べて、落ちないように竹串を刺して支えておきます。


         大正4年(1915)6月、町田村字潮田の土地の開墾と農民

 中央和服の人は写真提供者・飯山明さんの祖父で、現港北区箕輪町出身の飯山義一さん。
 この人は、箕輪の農民を引き連れ、現鶴見区栄通2丁目(当時町田村字潮田)の土地を開墾し、3町歩余の水田に替えました。写真は当時の農民と後方の藁葺きの建物は農民宿泊用の小屋です。
 その後、この土地が飯山義一さん創立の鶴見製氷所(写真下)の工場敷地になりました。
  提供:飯山 明さん(栄町通)



昭和5年(1930)、飯山義一さん経営の鶴見製氷所正門

提供:飯山 明さん(栄町通)


      大正6年(1917)7月、鶴見浅野造船所で進水式

 新船は白鹿丸、11,000トン、全長135.6bです。
 今から96年も昔、これほど巨大な船をつくれる日本の造船技術の高さには、改めて驚きました。

 鶴見浅野造船所は昭和15年、日本鋼管と合併し「日本鋼管鶴見造船所」と改称、戦後は南極観測船「ふじ」や「しらせ(初代)」もこの造船所の建造です。平成の造船業界の再編で鶴見造船所は「ユニバーサル京浜事業所」の社名になっています。
 
提供:添田有道さん(市場上町)


巨大な船を、ひと目見ようと集まった見物人と式典関係者

 
提供:添田有道さん(市場上町)


    大正8年(1919)、潮田尋常高等小学校の校舎

 現在地に移転し校舎が落成した潮田尋常高等小学校(現在の潮田小学校)。当時は、橘樹郡町田村立尋常第二町田小学校でした。 
  提供:潮田小学校
 



写真左の現在の潮田小学校

2013.1027 
撮影:石川佐智子さん(日吉)



        大正14年(1925)、鶴見臨港鉄道の工事着手

 埋め立て地への輸送機関として鶴見臨港鉄道の線路敷設工事が始まりました。最初の工事は運河に橋を架設することでした。

  提供:林正己さん(仲通)



大正時代、松の大木が聳えていた弁財天

提供:萩原貞雄さん(市場上町)







     弁天さまのご利益

 徳川5代将軍綱吉の時代、潮害を防ぐ堤防を築こうとしましたが、難工事で再三失敗しました。そこで甲斐武田の一族、小野氏は日頃信仰する江ノ島弁財天のご加護を頼み、分霊を堤防の起点である鶴見線の鉄橋のたもと、小野町と下野谷の境に勧請しました。すると、それ以来、工事は順調に進行、見事に完成しました。
 大正11年(1922)現鵜見線の計画地にあたるため場所を少しずらし、その後さらに現在地の鶴見工業高校の隣に移しました。



写真左の現小野町の弁財天

2013.10.27 撮影:石川佐智子さん(日吉)
  
NO.5
 明治・大正期の潮田、点描

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