校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.4
多事多難、昭和28年から38年の鶴見

          鶴見神社、祭り三景

提供:金子元重さん(鶴見神社宮司)


          昭和28年、京浜鶴見駅前付近、鶴見中央4丁目をゆく山車

 お囃子連を乗せた山車を引<“正装”の牛。先頭は金子勢次宮司を乗せた“正装”の馬、その手綱を持つ神官。後方、子供みこしも大人みこしも担ぎ手は、フンドシー丁……・


  山車の先頭は鶴見三業地の芸者衆

金棒を持った手古舞姿で鶴見銀座通りを練り歩く。






        佃野商店街にお神輿がやってきた

 町並みは手前から中村材木店、きらく肉店、うめだ屋、高城理髪店、工サヤ北村商店、飯田屋、星野綿店などが並ぶ。

みこしの一団は街中に入ったとたん、活気づく。丸裸に六尺フンドシの男たち、体中から玉のような汗が噴き出ています。家や店から柄杓を手にした人たちが次々飛び出してきて、担ぎ手めざして水を掛ける。見物人からどっと歓声が沸く。
 休憩ともなれば横丁や店からスイカ、お菓子、飲み物などが差し入れられる。男たちは佃野の街のこの歓待が嬉しくて、いっそう燃えるのでした。



   昭和33年の狩野川台風


 昭和3392627日の両日降り続いた台風は伊豆・狩野川の大洪水で死者が1000人を超え、この名が付きました。
 横浜市内では時間雨量39ミリ、最大瞬間風速365b、一日の雨量2872ミリを観測し、これは気象台創立以来の記録でした。

 鶴見区内では鶴見川の堤防が決壊、沿線の低地の被害は大。河口に近い市場小学校は校舎の床上浸水1b20a。翌日船で登校した教員は、2階の昇降口の階段を船着き場にして校舎に入ったという。鶴見川の水位よりも低い学区地域は一週間も水が引かず、9日間の休校となったのでした。



鶴見消防署末吉消防出張所も水浸し

提供:土田和男さん(下末吉)






       下末吉の平坦地一帯が冠水

 後方の煙突は森永製菓鶴見工場。トラックは救助に来た横浜市建設局の車です。

  提供:土田和男さん(下末吉)


      昭和31年2月、佃野商店街の夜景

 後方の店や交番はロータリー建設のために移転しました。後方の中央は佃野商店街アーケード。
 店は左から金子時計店、西田書店、木村洋服店、内山ミシン、アーケード、交番、長尾米店(キントキパチンコ店前移転)、時計屋、靴屋、中野床屋、花屋、滝沢クリーニング店。商店街を入って右側にレアルト劇場、映画館ロマンス座が並んでいました

  提供:西田書店(豊岡町)


 昭和31年11月、鶴見とび職組合の纏新調記念

 町火消しといえば、とび職。その各組の象徴が纏(まとい)。
 同組合の全員がまず鶴見神社に集まって新調の纏のお祓いをしたようです。
  提供:小山和雄さん(駒岡)


列車と電車三重衝突、死者161人の大惨事「鶴見事故」


           提供:金子元重さん(鶴見神社宮司)


 鶴見事故は写真下の地点で起きました。貨物列車の最後部が脱線、その貨車に下り横須賀線電車が衝突、脱線しました。さらにちょうどすれ違い中の上り電車が線路にはみ出た下り電車に衝突……。
 上り線に乗り出して横倒しになった下り電車の中で倒れてもがく乗客が詰まった車両。そこに上り電車が突っ込んできました。
 轟音と悲鳴、電車の屋根や側面が粉みじんに吹っ飛び、人間が車両の下に呑まれ、救いを待ちながら消えて逝くという史上空前、悲惨な大事故です。




                 昭和38年11月9日午後9時40分、事故発生

 国鉄東海道線新子安〜鶴見間の滝坂踏切から約300bの事故現場。写真はその翌朝の模様。
 手前は横須賀線電車。線路は横須賀線のほかに東海道本線、京浜東北線、京浜急行、貨物線と上下10本の車両が立体交差する地点、しかもカーブ個所です。
 左手前の住宅は岸谷1丁目。右上は第一京浜国道沿いの市営バスの車庫。



脱線した貨物電車に衝突した「下り横須賀線電車」(左)に「上り横須賀線電車」(右)が衝突、くの字に折れ曲がった車両


車内は爆発現場のようです




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