校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.2
戦中・戦後、焼け跡からの昭和期

  戦争の序曲、太平洋戦争、そして敗戦




 汽車の火の粉で焼失した天王院。昭和2年、再建の上棟式

 JR鶴見駅近くにあった天王院は明治433月、蒸気機関車の火の粉が本堂の茅葺き屋根に落ちて発火、焼失しました。さらに火は折からの北西風に煽られ、次々飛び火し百数十軒が炎上しました。その後、天王院は現在地の寺谷に移転し、再建されました。

  提供:金子元重さん(鶴見神社宮司)



昭和3年、開設の鶴見消防署電話室

提供:添田有道さん(市場上町)












昭和6年、山を切り開き、幹線道「鶴見・獅子ヶ谷線」開通

写真は西富士見台切割。       
提供:添田有道さん(市場上町)


     写真左の現在地

 場所はバス停「月見ケ丘」の所で、右手が成願寺墓地。
   2013.10.22 
撮影:石川佐智子さん(日吉)




昭和10年4月、鶴見神社の鳥居完成

提供:熊澤一雄さん(鶴見中央)





 昭和14年、鶴見神社の欅の前に集合した住民

 男性は全員が戦闘帽に国民服姿です。
 昭和14年といえば、ドイツ軍がポーランドに進撃したのに端を発し第2次世界大戦に突入。わが国政府は物価統制令を発令し地代家賃の凍結、サラリーマン給与の釘づけ、石油配給制に踏み切るなど軍事費増強に躍起になってきました。一段と世界戦争の道へと突き進んだ年でした。

  提供:長尾輝夫さん(佃野町)


昭和16年5月、下末吉公設市場が開店

提供:北村真規子さん(佃野町









 昭和20年春、豊岡町・槙田家門前の海兵隊員

 横田家では男性3人が戦地に赴いていたためか、父親は若い兵士をわが子のように可愛がり、海防艦が修理で造船所に入るたび、宿泊所として自宅を開放、食事を出して労をねぎらっていました。
 この写真撮影後、全員が軍務に就き、全員が戦死、帰らぬ人に。まだ十代の少年兵もいましたが……。
  提供:板垣久史さん(寺谷)



 のれんを守る北村商店、その足跡
                         
                             提供北村真規子さん(佃野町




        昭和11年8月

 店の前の道(現つくの商店街)は末吉を通って駒岡・獅子ヶ谷・綱島に抜ける街道筋。馬や牛が引く荷車の往来が激しく、北村商店は乾物や海産物のほかに牛馬の飼料も商っていました。



 


           昭和21年4月

 店主は敗戦で復員、家族が長野県の疎開先から帰ると一面の焼け野原。焼けトタンで一坪ほどの小屋を建て、手書きの「北村食品店」の看板を掲げ、おから、煮豆、信州から持ち帰ったソバ粉などを私が、一人で売っていました。新しい店(右後方に建築中)に立つのが何よりも楽しみ。



       昭和25年5月

 牛馬飼料の販売が定着し、看板は「エサヤ北村商店」。復興とともに昔の暖簾がものを言い、しだいに繁盛し始めました。
 左側の看板「かつを」は、静岡・蒲原から生節やイワシを仕入れて加工、「花かつを節」と「イワシ削り」の商品として小売店に卸売り。これがヒット!
 写真左端の人は写真提供者・北村真規子さんの父
正行さん。



           昭和36年7月

 店舗を改装し買い物し易い店にしました。おかげで対面販売の店はいつもお客様で賑わいました。




      昭和36年8月、鶴見区最初の“セルフ販売”の店に

 店名を北村商店から「北村ストア」に替え、鶴見区最初の“セルフ販売”の店に。これが新聞に取り上げられるなどして話題の店となり、連日活況です。

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