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昭和6年、当時珍しい渋谷駅前のネオン
提供:梅原敏夫さん(道玄坂2丁目)
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昭和19年5月、強制疎開前、駅前にあった梅原園
梅原家は、富ヶ谷で茶栽培を専業としていましたが、明治期に製茶販売業に転業し道玄坂の入り口、現ハチ公前交差点付近に店を構えていました。しかし戦局が悪化し、防災地域を設けるため“強制疎開”といって建物を戦車や人力で無残にも破壊したのでした。
写真は、強制疎開される直前、梅原家で記念に撮影したものです。右隣にサカエヤ百貨店、左手に井の頭線の駅が見えます。
提供:梅原敏夫さん(道玄坂2丁目)
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昭和19年1月、梅原家の兄弟二人の出征式(共に戦死)
写真提供者・梅原敏夫さんの弟、力さんと豊さん(中央旗の後ろ)は同時に召集令状がきて、梅原園店頭で在郷軍人や隣組の人たちに見送られ出征しました。二人ともその後、戦死……。
敏夫さんも数ヵ月遅れで出征しましたが、終戦を迎え、無事帰国できました。
提供:梅原敏夫さん(道玄坂2丁目)
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昭和19年、防空壕づくり
金王八幡神社と東福寺との間、道路端の石垣を崩し、氏子や住民の防空壕造りです。
提供:金王八幡神社(渋谷3丁目)
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昭和10年、東横百貨店前をSL貨物列車がゆく
山手線の貨物列車が電化されたのは昭和29年、それまでは蒸気機関車が活躍していました。東横百貨店の開店は昭和9年、写真はその翌年です。
提供:堀井文具店(目黒区上目黒2丁目)
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昭和23年、解禁の英語を看板に書いた店
終戦の前年、満州から帰国した小島一介さん一家は、バラック建て住宅が建ち並ぶ円山町で新しい店を持ちました。店名はようやく解禁になった英語でFashion、それを中国語で「これから飛躍」の意味「発双」をかけたものです。ウインドーには外国のカタログ雑誌を飾り、当時としては流行の先端をゆく店と話題になりました。
提供:小島武子さん(円山町)
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戦前の昭和12年、戦後の昭和26年、青山通りの宮益坂
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昭和12年の宮益坂。中央の森は御嶽神社。4両の市電が折り返し所のハチ公前へ向かう
右上に青山学園校舎。街路樹や住宅地に樹木が茂り、落ち着いたたたずまいです。
提供:菅野今朝吉さん(渋谷1丁目)
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昭和26年、戦災後の区画整理中の宮益坂。中央上に青山学園
渋谷区の空襲は昭和19年11月27日に始まり昭和20年5月29日に至るまで前後12回に及びました。なかでも昭和20年5月24日から25日にかけての空襲は最大規模で、渋谷区内約77パーセントが焼き尽くされ瓦礫の街と化しました。
写真はその復興を機に青山通りの拡張工事中の光景です。青山通りに車が2台。通りをはさんで銭湯の煙突が2本。右下の明治通りでは子供が野球に興じています。あれほど茂っていた樹木が空襲で焼き尽くされ一本も見当たらないのが印象的。
提供:菅野今朝吉さん(渋谷1丁目)
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写真上と同方向、現在の青山通りの宮益坂
上の写真から62年の歳月が流れ、広い歩道が付き、車道は2倍ほどに拡幅、両側に高層ビルが林立する21世紀の宮益坂です。
2013..5.25 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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焼け跡から復興中、渋谷駅前
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昭和26年、一面焼け野が原と化した渋谷駅前が着実に新しい街づくりが進む
車も通行人も少なく、街並みは平屋や2階建てが多い。右上のY字路の分岐点が現在の109.その裏は三角地の一帯でその昔が「百軒店(ひゃっけんだな)」といい、当時は「恋文横丁」と呼んでいました。
提供:菅野今朝吉さん(渋谷1丁目)
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昭和24年、渋谷駅前で焼け残ったビルの移動
焼け残ったビルを区画整理で移動中です。右手の通りは道玄坂。Y字路の右の通りは現在の東急本店通り、その先に大向(おおむかい)小学校校舎の屋根(現東急百貨店本店)が見えます。正面のひときわ高い建物は戦災を免れた映画館「渋谷東宝劇場」です。
提供:二村次郎さん(鶯谷町)
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昭和24年、写真上の3階建てビルをここまで移動
渋谷駅と山手線の線路。後方が恵比寿方面。
提供:二村次郎さん(鶯谷町)
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昭和26年の現公園通り
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東急百貨店東横店の屋上から富ヶ谷方面の地平線まで見渡せる景観
右下が山手線の線路。中央の建物が映画館「渋谷松竹」で、現在は西武百貨店A館。その前の通りが「公園通り」です。
提供:白根記念郷土文化館(東4丁目)
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現在は東急百貨店東横店屋上からの撮影ができず、現地で見た公園通り
2013..5.24 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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