戦後から高度成長期の代官山 話す人:小山美代さん 取材:昭和61年7月
|
戦後出店当時はバラック建ての店
渋谷では父が一番古い薬屋をやっていましたが、渋谷の下通りでは立地条件が悪いということで、戦後この地へ店を出しました。
最初はバラック建ての店に両親が住み込みで商売していました。たまに私も代官山のこの店に来てみると、夜はお星様やお月様が天井からのぞけるほどの、間口2間のお粗末な店でした。
昭和25年の朝鮮動乱当時、裏に住んでいた武蔵工大の先生の設計で現在の店がようやく完成しました。その頃、この建物の写真や設計図が三越などの展覧会によく出展され、当時としては斬新な店舗だと、もてはやされたのでございます。

昭和25年、店舗建て替え中のトモエ薬局
道路は八幡通り、向かい側が同潤会アパート。いまは隣に代官山郵便局があり、繁華な中心街ですが、信じられない閑静さ。
提供:トモエ薬局 |
|
羽根つき、タコ揚げができた八幡通り
なにしろ、当時の八幡通りでは昼間から車道で羽根つき、タコ揚げ、キャッチボールなどができ、雪が降れば雪ダルマをつくって遊べる時代でしたから……。
この辺は同潤会アパートに代表される森閑とした住宅地で、1台の車が通り過ぎれば、また静寂、といった静かな別荘地みたいな所でした。
|
|
|
小山美代さん
トモエ薬局店主。
猿楽町。取材時64歳
|
戦後の変貌は東急代官山アパートの竣工から
それが、わが家の前に近代的な東急代官山アパートが建った昭和30年代から急に変化してきましたね。店の前に信号がありませんでしたから10人くらいの通行人が集まると、みんなで渡れば怖くない、とばかりに「そらっ」と集団で声をかけ、道路の向こう側に渡ったものでした。
東急代官山アパートに江利チエミさん(歌手)、左幸子さん(女優)、天地真理さん(歌手)らの芸能人のみなさんが住人になり、マスコミに取り上げられたりしてこの代官山が急変してきましたねえ。
外国人の応対には、閉口しました
この店で私が初めて店番した頃、恵比寿の駐留軍キャンプの外人たちがジープで買物にきて、それは気味の悪いものでした。彼らはオーストラリア兵。「お金がないからこの品物と交換しろ」と腕時計を見せたりして、いきなり英語で浴びせかけるように話すのです。耳から聴く英語とは、こういうものかと閉口しました。それからはなるべく外国映画を観たりして勉強いたしました。
いち時期、現在のパシフィックマンションの所がロシアの小学校だったことがありまして、この辺にはたくさんのロシア人が住んでいました。あの人たちは大変逞しい気力と生活力を持っていますね。
言葉ができなくても平気なの。マーキュロ一本買いにきた奥さんに1時間も、粘られたことがありますよ。
毎日外国人客がお見えになっては、失敗の連続、お笑いと冷や汗の連続でした。
最近は、あちら様が日本語を話されますので、タイヘン助かっております。
|
|
|

国の重要文化財指定、大正8年建築の旧朝倉家住宅
ヒルサイドテラスのオーナー、朝倉徳道さんの祖父・虎次郎さんが東京府議会議長時代に建てた木造住宅です。一般公開していますので誰でも見物できます。
資料:入り口の展示物から
|
|

写真左の旧朝倉家住宅の現在(2013.5.17)
撮影:岩田忠利
|
|
|
|

昭和26年冬、旧山手通り
左手のお屋敷は東京府議会議長を歴任された朝倉さんの家。当時は水車がある朝倉精米店。
撮影:二村次郎さん(鶯谷町)
|
|

写真左と同じ場所、現在(2013.5.17)
代官山商店街の“核ショッピングゾーン”、ヒルサイドテラス
撮影:岩田忠利
|
|
|

昭和28年7月、猿学小で子どもと相撲、幕内の大岩山関
同関取は弓取り式で有名で、同潤会アパートの住人でした。
提供:伊東 靖さん(代官山町)
|
|
|

昭和33年5月、アジア大会の聖火がゆく
東京開催の第3回アジア大会、その聖火が八幡通りを通過する。当日は快晴、沿道は人でびっしり。
提供:伊東 靖さん(代官山町)
|
|

昭和30年8月、東急代官山アパートからの八幡通り
提供:やは多寿司(猿楽町)
|
|

左の八幡通り、東急代官山アパート向かい側、現在
2013.5.17 撮影:岩田忠利
|
|

昭和32年、カナダ大使館の書記官官舎
この前庭で代官山町の町内盆踊り大会がよく催されました。
提供:山下廣光さん(代官山町)
|
|

写真左のカナダ大使館の書記官官舎跡、現在
1階の右側は「写真有賀」です。
2013.5.17 撮影:岩田忠利
|
|

昭和34年4月、皇太子御成婚祝賀提灯行列
代官山町会「親交会」は各自提灯を持ってお祝いに東宮仮御所へ駆けつけました。バルコニーでみずから提灯を手に歓声に応える皇太子と美智子妃。
提供:伊東 靖さん(代官山町)
|
|

昭和36年、この並木橋下にあった旧並木橋駅
東横線開通から昭和20年5月の空襲で被災するまで「並木橋駅」が写真の高架橋「新並木橋」の下に、駅舎がありました。被災後、約1年間休止し、昭和21年5月31日に正式に廃止になりました。
写真の女性は、三慶堂薬局の赤岡みちお氏夫人・久子さん。
提供:伊東 靖さん(代官山町)
|
|