校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.2 戦前〜戦中の代官山
            
           
「同潤会アパート」は、戦前の代官山の代名詞

  関東大震災で壊滅的打撃をうけた東京と横浜の復興のため、アメリカなど内外から寄せられた救済義援金を基金に「財団法人 同潤会」が設立されました。
 最初、その資金で急造の木造バラック住宅が建てられましたが、ひと段落すると恒久的耐震耐火の庶民住宅の建設に着手したのです。その数は東京・横浜両市内に16か所、同潤会代官山アパートもその−つで戸数337戸、昭和2年1月の完成でした。



  昭和12年、同潤会アパート。29号館の代官山食堂前から28号館方面を望む

 当時は29号館が管理棟で同アパートの中心地であり、同食堂の隣に魚屋・薬屋が並び、左側の23号館1階に亀屋菓子店・理髪店・青果店、棟つづきで文化湯がありました。
                 
提供:藤沢邦夫さん(代官山同潤会アパート)


昭和12年パリッとしたスーツ姿でご出勤の主人たち。16号館前で

前年8月、ベルリンオリンピックで女子200b平泳の前畑秀子選手が日本女子初の劇的優勝をとげる際、「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」を連呼、中継したアナウンサーはNHKの河西さん。その彼も、ここの住人でした。
 当時、代官山駅周辺の住宅はみな裸電球で木造でした。しかし、ここ同潤会アパートだけは鉄筋コンクリート建てに付帯設備として児童遊園・娯楽室・公衆浴場・食堂・自家水道がある画期的なもの。庶民には憧れの“億ション”でした。戦前、月給100円の収入がなければ入居できないといわれました。月給100円の所得があれば門構えの家にお手伝いさん一人を雇える暮らし、といった相当な高給取りです。
  かつて15号館に水の江滝子、終戦直後27号館に元総理大臣・福田赴夫、16号館に三木元岡山県知事らが住んでいました。
 
提供:藤沢邦夫さん(代官山同潤会アパート)



  中央の人が首相官邸襲撃を命じられた青年

 この写真は昭和10年9月16日氷川神社祭礼のときですが、中央の青年・山口市太郎さん(21)は翌11年召集令状がきて兵役。
 入隊後間もなく真夜中に起こされ、何も知らされず、いきなり白鉢巻を渡され、首相官邸襲撃を上官から命ぜられました。昭和11年2月26日、いわゆるクーデター、2・26事件出動でした。
 提供:山口イヨさん(代官山町)


 昭和12年、開店直後のソバ店「朝日屋」

 後ろの看板どおり、天丼は20銭、定食は17銭、盛りソバ4銭でした。
 その当時、もともと盛りソバ1杯の値段は、都電の電車賃や銭湯といつも同額でした。

 提供:栗岩せんさん(猿楽町)

  
     
昭和18年3月、東京市猿楽国民学校(現渋谷区立猿楽小学校)



同校正門


        日増しに戦火が激しくなる時勢下、校庭での朝礼

 児童の整列が定規で線を引いたように一直線、見事です。ちまたには「買出し、国民服、勤労奉仕、灯火管制、防火訓練、宮城遥拝……」の言葉が。
  提供:中島精米店(代官山町)
 
  

  
戦前と戦中、逆転する世の中と生活   話す人:山口イトさん  取材:昭和61年7月



   
お手伝いさんと間違えられた嫁

昭和3年、私は19歳のとき、世田谷からここへお嫁にきました。まだ十代で私が若く見えたのでしょう、近所の人はお手伝いさんがきたと勘違いして、店番している私にお茶菓子を持ってきてくれたり、代官山のことを何かと親切に教えてくれたりしました。

   当時の酒屋と酒好きのお客さん

当時、酒屋というと酒・味噌・塩・醤油・ウイスキー・少しばかりの缶詰を置いてあるくらいでした。日本酒は特級から2級酒までで5、6種類の銘柄の酒樽が店内にあるだけです。
 近所のお客さんには升の中にコップを入れ、酒樽の栓をきゅっとひねっ
て注いで売る。そのとき、お酒がほんの少しコップから溢れ、升の中にこぼれます。すると、酒好きの人は飲み干したコップに升の中の酒を注ぎながら「姉さんが注ぐと、盛りがいいねえ」と喜んだものです。
 ときには「今日の酒はうまくないねえ」と苦情をいうお客さんも。そんなときには「じゃあ、あとで美味しいお酒をお宅へお届けしましょう」とお答えします。
 そのお酒にほんの一滴、ミリンを垂らしてからお届けします。翌日そのお客さんに会うと「今度の酒は、甘くて美味しいねえ」と大喜びするのです。
 なにしろ、当時は一日3升のお酒を売れば家族3人が暮らせるといわれた、のんびりした良い時代でした。

山口イヨさん

 三清(さんせい)酒店
店主。代官山町
取材時75歳

 八幡通りは荷車1台がやっと通れる小道

昭和3年、私がお嫁にきた当時、並木橋から三清酒店(さんせい酒店)までの八幡通りは、荷車が一台やっと通れる程度の細い道でした。両側から木が覆いかぶさり、夜道は怖くて一人では通れませんでしたよ。現在のヤンマーディーゼル寮の角の十字路から先、桜丘方面は山林でした。もちろん乗泉寺のあたりはこんもりした山でしたから。

  防空壕があったお蔭で九死に一生

 昭和20年5月の空襲のときは、私たちは山本農園のある山(現在は外人住宅団地エバーグリーンホーム)に逃げ込みました。しかしそこに焼夷弾がバラバラ落ちてきて、周囲が一瞬のうちにバリバリ焼け出したのです。
 
どこかの男の人たちが「ここにいると死ぬぞォ!」と大声で叫びました。現在の乗泉寺がある所に大きな防空壕があったのでみんなが命からがら、そこに移りました。そこで一晩過ごし、わが家に戻ると家は無事でしたが、同潤会アパートの先や鷺谷町の藤屋酒店の方面は一面の焼け野原となっていました。

  八幡通りで野菜づくり

 戦時中は、今では考えられない酷い食糧不足の時代でした。現在は車がひきも切らず通る今の八幡通り、ここを掘り起こし耕して麦やサツマイモ、ナスやキュウリなどの野菜を作っていたのですからねえ。口に入れる食糧をなんとか手に入れないことには生活できないのですから、なりふり構わず、見よう見まねで農業をやりましたよ。
  戦前は一日3升のお酒を売れば家族3人が暮らせる時代だったのに、戦時中はがんばっても、がんばっても餓死する人やお母さんの母乳が出ずに亡くなる赤ちゃんが多い、残酷な時代でした。世の中がこんなにも逆転する時代って、将来もあるのでしょうか。
                   取材・文 岩田忠利

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