お手伝いさんと間違えられた嫁
昭和3年、私は19歳のとき、世田谷からここへお嫁にきました。まだ十代で私が若く見えたのでしょう、近所の人はお手伝いさんがきたと勘違いして、店番している私にお茶菓子を持ってきてくれたり、代官山のことを何かと親切に教えてくれたりしました。
当時の酒屋と酒好きのお客さん
当時、酒屋というと酒・味噌・塩・醤油・ウイスキー・少しばかりの缶詰を置いてあるくらいでした。日本酒は特級から2級酒までで5、6種類の銘柄の酒樽が店内にあるだけです。
近所のお客さんには升の中にコップを入れ、酒樽の栓をきゅっとひねって注いで売る。そのとき、お酒がほんの少しコップから溢れ、升の中にこぼれます。すると、酒好きの人は飲み干したコップに升の中の酒を注ぎながら「姉さんが注ぐと、盛りがいいねえ」と喜んだものです。
ときには「今日の酒はうまくないねえ」と苦情をいうお客さんも。そんなときには「じゃあ、あとで美味しいお酒をお宅へお届けしましょう」とお答えします。
そのお酒にほんの一滴、ミリンを垂らしてからお届けします。翌日そのお客さんに会うと「今度の酒は、甘くて美味しいねえ」と大喜びするのです。
なにしろ、当時は一日3升のお酒を売れば家族3人が暮らせるといわれた、のんびりした良い時代でした。
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山口イヨさん
三清(さんせい)酒店
店主。代官山町
取材時75歳 |
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八幡通りは荷車1台がやっと通れる小道
昭和3年、私がお嫁にきた当時、並木橋から三清酒店(さんせい酒店)までの八幡通りは、荷車が一台やっと通れる程度の細い道でした。両側から木が覆いかぶさり、夜道は怖くて一人では通れませんでしたよ。現在のヤンマーディーゼル寮の角の十字路から先、桜丘方面は山林でした。もちろん乗泉寺のあたりはこんもりした山でしたから。
防空壕があったお蔭で九死に一生
昭和20年5月の空襲のときは、私たちは山本農園のある山(現在は外人住宅団地エバーグリーンホーム)に逃げ込みました。しかしそこに焼夷弾がバラバラ落ちてきて、周囲が一瞬のうちにバリバリ焼け出したのです。
どこかの男の人たちが「ここにいると死ぬぞォ!」と大声で叫びました。現在の乗泉寺がある所に大きな防空壕があったのでみんなが命からがら、そこに移りました。そこで一晩過ごし、わが家に戻ると家は無事でしたが、同潤会アパートの先や鷺谷町の藤屋酒店の方面は一面の焼け野原となっていました。
八幡通りで野菜づくり
戦時中は、今では考えられない酷い食糧不足の時代でした。現在は車がひきも切らず通る今の八幡通り、ここを掘り起こし耕して麦やサツマイモ、ナスやキュウリなどの野菜を作っていたのですからねえ。口に入れる食糧をなんとか手に入れないことには生活できないのですから、なりふり構わず、見よう見まねで農業をやりましたよ。
戦前は一日3升のお酒を売れば家族3人が暮らせる時代だったのに、戦時中はがんばっても、がんばっても餓死する人やお母さんの母乳が出ずに亡くなる赤ちゃんが多い、残酷な時代でした。世の中がこんなにも逆転する時代って、将来もあるのでしょうか。
取材・文 岩田忠利
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