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MAP:代官山駅地区

校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

NO.1 大正期〜昭和初期の代官山
       
         
松直商店(現グランドキャニオン梶j 97年の歩みから



          大正5年(1916)、猿楽町9番地の松直商店の工場

 左隣に逸見計算尺工場があり、正門前は畑、道も細い畦道です。右下に荷車の車輪が見え、長閑な田園の中のファクトリーといった風景です。
この写真から60年後の昭和51年暮れ、左手の畑で弥生時代の遺跡が発見され、現在この場所は「猿楽古代住居跡公園」となっています。
 提供:グランドキャニオン梶i猿楽町)


                 大正15年(昭和元年)、「松直工場」正門

 門柱には当時、東京府豊多摩郡渋谷町と表示されたころの字名「下渋谷」の地番地が記されています。停車中の2台の車がその時代を偲ばせます。
 松直商店社長・松岡直治郎さんは、まだ日本で洋服にバンドを使用していない大正・昭和初期の時代に「谷渡り人物印ズボン釣り」という風変わりなブランドのサスペンダー・メーカーとして日本最大規模の会社でした。

 提供:グランドキャニオン梶i猿楽町)


  昭和9年4月、松直商店の江ノ島鎌倉への社員旅行貸切バス11台が八幡通りに並ぶ

 代官山の目抜き通り、八幡通りは昭和二十年代まで「昼間から車道でタコ揚げや羽根つき、雪だるまを作って遊べました」とトモエ薬局の主人が話すように車が滅多に通らない静かな通りでした。
 そんな時代より10年も昔、これほど多くのバスの行列は、さぞ代官山の人たちのどぎもを抜いたことでしょう。
 提供:グランドキャニオン梶i猿楽町)


      昭和9年、松直商店工場の正門

 道路も下水道も整備され、周囲の環境が代官山らしくなってきました。

 提供:グランドキャニオン梶i猿楽町)





     昭和9年1月、ヨット鉛筆の初荷風景

 松直商店社長・松岡直治郎さんはヨット鉛筆鰍フ社長も兼務。トンボ鉛筆、三菱鉛筆と並んで“鉛筆の御三家”と呼ばれましたが、昭和三十年代に会社は解散、ヨットのブランドは消えました。
 提供:グランドキャニオン梶i猿楽町)


昭和61年8月、社名変更「グランドキャニオン梶vに

 モダンな建物になった本社ビル。

 撮影:岩田忠利





写真左の現在(2013.5.17)

 左の建物は77戸のマンション「レジデイア代官山猿楽町」に変わり、向かい側が渋谷区立の「猿楽古代住居跡公園」と空き地になっています。
 撮影:岩田忠利


  大正5年、周囲が畑だった代官山町・細木いねさん宅

 この写真をお借りにあがった昭和61年夏、いねさんは満93歳。「こんな写真でもお役に立ちますか」と笑顔で渡してくださいました。
 
提供:細木喜久子さん(代官山町)



  写真左と同じ郵便局脇の道、現在(2013.5.17)

 両側に店舗などが並び、交通量と駐停車が多く、撮影に手間取るようになりました。
 撮影:岩田忠利
   

  大正時代、代官山の思い出   話す人:福田三郎さん   取材:昭和61年7月


  
水量豊富な井戸

  目黒の東山に住んでいましたが、目黒川がしばしば氾濫するので高台の代官山に両親が土地を借り、明治45年にここに家を建て大正元年8月1日に引越してきました。
 当時この辺一帯は麦畑とスイカ畑。東側には牛小屋があってその近くに湧き水が出ていました。井戸は高台なのに水量が豊富で、しかも水質が非常に良かったですね。
 ある時、わが家で井戸に物を落としたために井戸替えをする羽目になったのですが、汲めども汲めども水量が減らない。電動ポンプを借りてきてやっと……ということもありましたよ。
 現在のトモエ薬局のあたりに水車小屋がありました。水車を回していた川の流れは八幡通りの下をくぐつて、代官山駅の方へ流れていました。いつ頃だったか、この水車小屋が取り壊されるというので、わが家では記念にその石臼を譲ってもらいましたよ。



庭の植え込みにある石臼を指差す福田三郎さん(真興社・社長。取材時83歳)

  
  
西郷従道さんのお子さんと友だち

 私がお茶の水にある女子高等師範付属小学校に通学している頃、学習院に通っている西郷さん(西郷隆盛の実弟・西郷従道さんのこと) のお子さんと仲良しになり、お屋敷へよく遊びに行ったものです。邸内での遊びはいつも火薬銃でハトを撃ったりして。
 当時、西郷従道さんは国のいろんな大臣を歴任していた偉い人でしたから、お屋敷内には警備の巡査が何人もいました。でも、西郷さんの坊ちゃんと一緒ですから取締ることもできず、ただ笑っているだけでしたねえ。

  4050人のお妾さんを抱える“岩谷天狗

八幡通りに面して岩谷天狗″の大きなお屋敷がずーっと続いていました。岩谷という主人が全国を相手に天狗煙草″というタバコを販売し一代で財をなしたのです。代官山では大人も子どもも、この人のことを「岩谷天狗」、そう呼んでいました。
 お屋敷には真っ赤な大きな門がありまして、奥には旅館みたいな建物が両側にずーっと並んでいました。これが、なんとお妾さんの部屋なんです。その人数は40人とも50人ともいわれていましたからねえ。さながら江戸城の大奥みたいでしたよ。
 また、岩谷天狗″といわれた主人のご出勤は印象的でしたね。真っ赤な着物を着たご本人がお妾さんを両側にお伴させ、馭者(ぎょしゃ)付きの馬車に乗って朱色の門を出ていく光景……これは子供心に強烈に焼きついています。
                    取材・文 岩田忠利