水神様は80坪弱の敷地だったが、ここに大人4〜5人の手でも回せないほど大っきなケヤキの木が立っていたっけ。そ、そう、2月11日は水神様のお祭。神主が祝詞をあげ終わると、お参りに来た人たちに水神様の湧き水を使う田んぼの持ち主がオコワ(赤飯)を炊いて配った。
ふだん麦飯ばっか食ってる子供たちには、この日が来るのが楽しみでねえ。水神様のオコワ(赤飯)を食べると、風邪も治るという言い伝えもあったんだよ。
呑川とウナギ
耕地整理してない頃の呑川は、曲がりくねってて、少し大雨が降ると、じきに洪水だ。呑川の流域はずーっと池上から蒲田の方まで田んぼばっかしだったよ。 呑川にはとくにウナギが多かったね。ウナギって土用になると、海から川へ産卵にやってくるのかなあ。この時期、すごーく捕れるんだ。今の街の鰻屋は、「土用の丑の日には夏バテ防止にウナギ食え」なんて宣伝するけど、この頃いっぱい捕れるからなんだ。呑川からこんなに奥に入った水神様の所でさえ、1日で37匹も捕った人がいるんだもの。あの辺は周りがボヤ(藪)、湧き水だから冬の水温は暖かいし、そりやあ、増えたもんだ。ここは八ツ目ウナギが捕れるので有名だったよ。
水神様に集まる乞食たち
ここの水神様の湧水は、馬込の十日森、大岡山の清水窪と並んで荏原郡の三大湧水≠チて有名なんだ。 ここにはいつも飲み水があるだろ、だから乞食がいつもいるんだ。1人や2人じゃなく、30人も。
警察がこいつらを追っ払う。すると、馬込の十日森へ逃げて行く。あっちで追っ払われると、こっちへ。警察と乞食の追い駆けっこなんだ。あの連中は、大人しくつて、何も悪さはしないけどねえ。
乞食たちは、水神様の所に自分たちでバラック小屋を建てて住んでいた。夫婦に子供までいるんだから。昔の人は、よくみんなが乞食に金や物を恵んであげたもんだ。あれだけ大勢が生活できたんだから、昔の人には情けがあったんだねえ。
昔、池上本門寺のお会式は1週間も続いた。そのとき、水神様の乞食の一連が池上へ出張するんだ。
おミツという背が高く、器量のいい女がいた。じつに立派な女よ。それが乞食だ!
夕方になると、浴衣なんか着て、なよなよと……。それこそ顔がいいから、「どこのご令嬢か若奥さんか」と間違えるほどだ。それが外へ出掛けるときにゃあ、ボロボロの乞食の服装で……。
ときには、荏原郡の乞食がみーんな、この水神様に集まることもあるんだよ。
碑文谷から担いできた墓石
昔この辺の農家は、みんな目黒・碑文谷の寺、日蓮宗法華寺の檀家だった。それが「不受不施の事件」というのがあって、同じ寺が日蓮宗から天台宗に、そして寺の名前も円融寺に……。この時ばっかしは、「ご先祖に申し訳ねえ」と、どの家でも言い出し、大騒ぎになったと親から聞いた。
自分の先祖の墓石、それも30貫も40貫もあるものを、昼取りに行ったらみつかるというので夜中に碑文谷まで行って雪谷まで担いで持ってきたというんだからねえ。
元禄時代のこと、大八車もトラックも無いし、よーく持ってきたもんだ。しかも、一軒で何個も墓石のある家は、何回も通って……。
普の人は、強かったなあ!
大騒ぎになった荏原病院設立
雪谷の大きな出来事といえば、今の都立荏原病院が建つときだ。当時の荏原郡(大田・品川・目黒・世田谷の4区)の伝染病院として雪谷の地に建設という話が、実際に東京府議会で決議されたんだ。すると地元では、「伝染病が地元民にうつる」っていって大騒ぎになった。
村の代表は荏原選出の府会議長の家に設置取止めの陳情に日参したり、病院が雪谷にこないようにと雪ケ谷八幡で寒水で水浴びしたり、お題目を唱えたりして大騒ぎしたんだ。
地元の府会議員、市ノ倉の横溝直也ってえ人は、ふところに刃物を2丁ほど入れて歩かないと、危なくって道を歩けねえっていうんだ。
今じゃあ、当時の騒ぎも笑い話だよ。
取材・文:岩田忠利
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