昭和3年、「慶大グラウンド前駅」駅名標示板

 「千鳥町駅」の前身、「慶大グラウンド前駅」ホームに立つ前川丈夫さん
 提供:前川丈夫さん(横浜市神奈川区西寺尾)







  
「慶大グラウンド前駅」の頃

            慶大蹴球部・昭和5卒OB 前川丈夫

  (旧姓・萩原。横浜市神奈川区西寺尾。87歳<平成3年2月時>)

  私が慶應義塾の学生だった頃、「慶大グラウンド前駅」という駅が現在の千鳥町駅より100メートルほど池上寄りにあり、1両の電車がやっと止まるほどの小さなホームでした。
 慶大グラウンドは、その駅と目蒲線の武蔵新田駅のちょうど中間にあり、通称「新田グラウンド」と私たちは呼んでいました。グラウンドの周囲は湿地帯にアシが生い茂り、雨天の後のグラウンド整備はひと苦労。しかし春ともなると、クローバーの花が咲き、ヒバリが飛び、長閑なものでした。
 敷地内には蹴球部(ラグビー部)・陸上部・野球用のグラウンドがあり、蹴球部のグラウンドを囲むように1周400mの陸上部のトラック、また野球部用のグラウンドには古レールを組み立てたスタンド席やバックネットがあって、春の陸上運動会には毎年使われていました。
 駅周辺は、慶大グラウンドと休育会合宿所のほかには人家もまばら、旅館観月の大きな建物だけが目立っていたように記憶しています。ただグラウンドの近くに浅野屋とかいうソバ屋があって、よく出前を取った覚えがあります。
 もうあれから60年、あの辺もー面建物が建
ち、グラウンドの面影は全然ありませんね。



昭和3年(191928)9月、雨上がりのグラウンド整備

慶大蹴球部(ラグビー部)の部員。左端が前川丈夫さん。
提供:前川丈夫さん(横浜市神奈川区西寺尾)






昭和28年(1953)、初代千鳥町駅

提供:長久保 清さん(横浜市泉区緑園)



                 戦後の千鳥町駅前


       昭和25年5月、駅前通りと店

 駅前でさえ、まだ舗装されず砂利道です。つたやカメラ店が開店しました。

 提供:長久保 清さん(横浜市泉区緑園)


     写真左の現在(2013.4.1)

 写真左のチドリ薬局の店主はビルオーナーになり、店は他の薬局に貸しているとか。
 撮影:岩田忠利








               昭和29年4月、千鳥町駅前と商店街の町並み

 中央が千鳥町駅。駅の右側に商店街の町並み。駅の左側に東調布信用金庫や平和閣アパートその向こうに南久が原1丁目の家並みが広がっています。
 提供:長久保 清さん(横浜市泉区緑園)


        昭和29年4月、上の写真と逆方向、多摩川線武蔵新田駅方面を望む

 中央の千鳥町駅舎の後方、畑越しに千鳥小学校、その右手に日本精工鰍フ社員寮、右上に目蒲線(現多摩川線)の線路が見えます。まだ高層ビルはなく、畑や空き地が目立ちます。
 提供:長久保 清さん(横浜市泉区緑園)


                   昭和29年、新装の千鳥町駅


     昭和29年4月、電車を待つ人

 スカートで下駄履き姿の女性、スコップを持つ女性など、まだ戦後の雰囲気が漂う光景。
 提供:長久保 清さん(横浜市泉区緑園)


  昭和29年4月、新装なった千鳥町駅舎

 この写真は駅改装記念写真コンクール入選作品。
 提供:長久保 清さん(横浜市泉区緑園)











         昭和37年、創立10周年の千鳥小学校

 校庭の人文字、きれいに描けました〜! 校舎の裏手のコの字形の建物は北辰電機研修センター、左が多摩川病院。校庭の前に畑が見えます。
 提供:石田幸彦さん(千鳥1丁目)
   
     戦後11年の歳月の差が、写真左右の表情や服装に現れています。


昭和22年戦後復活した千鳥北町の祭りに参加した子供たち

 場所は駅前の千鳥町商英会事務所前。初めての記念写真なのか、子どもたちの表情は緊張ぎみ。どの子の服装にも戦後の物不足時代が反映されているようです。
 提供:池田宗三さん(千鳥1丁目)




昭和33年千鳥北町の祭礼役員

御嶽神社の境内で。

提供:池田宗三さん(千鳥1丁目)






NO.10
駅名が「慶大グラウンド前」だった「千鳥町」

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石川佐智子/ 編集支援:阿部匡宏/ 編集・文:岩田忠利