急流だつた多摩川
子供の時分、東調布第一小学校の高等科、そこを出たっきりですよ。もっと勉強したい人は、丸子の渡しに乗って小杉の安楽寺っていう寺に行ったんですがね。勉強どころか、渡しの向こう岸とこっち岸で顔合わせりゃ、石を投げっこしてケンカばっかし。私ら、ガキ大将でしたからね。
昔の多摩川は、今の川幅にくらべりゃ、ずっと狭く、ずっと水が多かった。そしてすごい急流だったね。丸子の渡し場のすぐ下なんて坂みたいな急流。そこを船を漕いでのぼるのは骨が折れる。坂みたいな急流を瀬≠チていうんですけど、その瀬をあがれる人なんか、幾人もいないのです。向こう岸では新丸子の日枝神社の近くにやっぱり、そういう瀬が……。砂利を掘る船がね、川崎の平間や古市場の方から川上にあがって行くんだが、綱で引っばってあがって行く。「ウー、ホイ、ウー ホイ」って掛け声でみんなが気合いを入れてねえ。その声が家でよーく聞こえたもんですよ。
今の多摩川、あれじゃ、水が流れているのか、止まっているのか、全然わかんない。
沼部側に近寄る流れ
東横線の鉄橋のちょっと上流の方から、多摩川は大きく曲がってるでしょ。そのためにね、大水のたびに水が砂を新丸子側に持って行ってしまってね、その分、川の流れはだんだん、沼部のこっち側へ寄ってきちゃったんですよ。
私ら子供時分にくらべりゃ、川が10尺ぐらい、こっち側に寄ってきてますよ。
だって、今の土手の中に家が5軒も6軒もあったんだからねえ。若松屋っていう料理屋、船大工、それから農家が3軒ばかし。みんな、大水で流れちゃった。今みんながタコ揚げしたりして遊んでいる場所、あそこは全部畑でしたよ。
自然の地形っていうものも、時代とともに変わるもんですねえ。
愉快な魚捕り
子供の頃は、よく魚捕りして遊びましたよ。多摩川の急流でね、舟に綱を付けておいてね、丘で引っばるんですよ。で、舟がぐっと急に曲がるから、水面が日陰になる。すると、魚の連中びっくりして飛びあがり、舟の中に飛び込んでくるわけですよ。ウグイやアユの、こんな大きなやつがねえ。帰りには、仲間と分けて持ち帰るんだけど、家中で食べる分、つかまったもんですよ。
親父なんかと一緒にやった魚捕りは背干し≠チていう捕り方。土を入れた俵を持って行ってね、石と土俵で堰止めて流れを変えちゃう。そして下流に網を張って上流から追い込む。魚は水がなくなるから、背中が見える。で、背干しっていうんでしょねえ。
親父も私も投網が好きで、ずいぶん網打ちに行きました。そしてよく親父とケンカしたねえ。私は竿をさす。親父が網を打つ。水がきれいに澄んでいたから、魚の動きがじつによくわかる。とくに網を打つ親父は、魚の姿がよく見える。私は親父が指図した方向に一生懸命舟を漕いでいるんだから、魚が見えない。すると親父が怒鳴るんですよ。「あっちじゃねえ、こっちだァ」。あんまり何度も怒るから、こっちも頭にのぼせてね。親父が腰を入れて全身で網を打とうとする瞬間、舟をバッと停めちゃうんですよ。

イラスト:石野英夫(元住吉)
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内田栄治さん
明治43年(1910)7月、大田区田園調布本町で生まれ育つ。東調布第一小学校を出て、鳶細野で修業。日本電気且O田工場の工事係に勤務の後、戦後「鳶内田」を設立、自営 |
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すると人間だけが前にほうり出されちゃって……。親父をおっぽり出して、さっさっと逃げちゃう悪い息子でした。
水が澄んでいたから、白魚もいましたねえ。鉛筆くらい大きいのが。天ぷらにすると、美味しくてねえ、アユよりよっぽど旨かった。それと、マルタが捕れましたねえ。若葉の季節になると、子を産みにあがってくるんだけどね。大きいのは、腹に子がいっぱい。バケツに何杯も捕れることも。このマルタの子とタケノコを煮て食うと、それは旨いもんです。あの昧は忘れられませんねえ。あれほどいたマルタ、今はどこへ行っちゃったんでしょうかねえ。
根っこ坂と干し大根
昔のさくら坂″は、私ら根っこ坂≠チて呼んでました。坂の途中に赤門という赤い門の大きな農家があって、そこにでっかいケヤキの木の根っこが崖ぶちをえぐっていてね、それはすごい様相でした。今は緩やかで長い坂ですけど、昔は一気に上る短い急坂でした。坂の上り口は坂口という屋号の森さんの家、その向かいの高い所に私らのおじさんの年代の人たちが通った小学校。これが今の東調布第一小学校の前身。
家で採れた野菜、これを神田市場へ持って行くときは、私は夜中の2時頃起きて、親父の荷車の後を押すんです。根っこ坂、洗足の坂、そして一番大きな五反田の大崎猿町坂上まで後押しして、それから家に帰って学校に行ったんですよ。
この辺(沼部)の名産は、干し大根。11月というと、どの家でも大根を洗って干したもの。それを荷車で運ぶのが大変だから、みんな川崎まで船で持って行ったんです。
寂しい田園調布と落合さん
田園調布という所は、人家が無く、寂しくておっかないほどでした。今の修道院の所に落合万之助っていう人がいましてね。この人が、今の田園調布で一番大きな地主だったですよ。とにかく8町歩ほどの土地があったらしいね。この人がハンを押さなきゃあ、田園調布はあんな風にはならなかったんですよ。ほうぼうの農家が、先祖伝来の土地だけはなにがなんでも売らないと頑張っていたのに、「落合さんでハンコ押しちゃったんじゃあ」と、みんな同調したんですからね。落合、熊笹、猿渡、追川といった姓の農家が10軒あってねえ。今はみんな、よそに引越しちゃいました。当時の面影は、今じゃぁ、宝来公園だけ。ここの池は田んぼの跡でねえ。ここだけを田園都市という会社が昔のままに残しておいてくれたんです。
銭を取らないお医者さん
私ら若い頃、池上が沼部よりちょっと賑やかだったですねえ。どちらも、今の時代にくらべりゃ、問題になりませんけどねえ。子供時分、この辺には一軒もお医者さんが無かったんですから……。一番近い所で等々力の阿久井さん、小杉の女の医者田辺さん、あとは池上本門寺の下の斉藤さん、とこの3軒しか、医者はいなかったんです。
近いのは池上の斉藤さんでしたが、私らは等々力の阿久井さんによくかかりましたよ。お説教する恐い先生だけど、いい医者でしたねえ。「このヤロー、また夜遊びしてきたな?」と怒っても、「おい、銭ができたら持って来い!」と優しい。こっちはいくら怒られても銭をとられねえんだから、いいお医者さんだ。
こんなお医者さん、今の時代、いるかねえ?
取材・文:岩田忠利
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