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NO.6 丸子の渡しと旧中原街道で栄えた、歴史ある沼部

校正:石川佐智子/ 編集支援:阿部匡宏/ 編集・文:岩田忠利

MAP:沼部駅・鵜の木駅地区
           明治期と昭和初期の丸子の渡し


     明治41年(1908)4月、丸子の渡し

 江戸の虎ノ門と平塚の中原を結ぶ中原街道は最初の官道となり、2代目の将軍秀忠が小杉に御殿を作り、鷹狩りしながら民情視察しここで休養したという。3代目家光が東海道五十三次を整備するまでは、小杉御殿のある小杉村と丸子の渡しのある上丸子村は、川崎市域で最も人々の往来が多く繁栄していました。
 その丸子の渡しの対岸にある沼部は、中原街道を通る人・人力車・荷車・荷馬・荷牛・牛馬・諸荷物が集まり、多摩川を渡る交通の要塞でした。
 写真では荷車を引く馬まで渡し舟に乗るところです。
 提供:山本五郎さん(中原区上丸子山王町。日枝神社宮司)


 昭和9年、丸子の渡し(川崎市中原区)、対岸が沼部

 丸子の渡しについては川崎中部編NO.9「丸子の渡しの変遷」をご覧ください。

提供:山本五郎さん(中原区上丸子山王町。日枝神社宮司)






 大正時代の多摩川と沼部   話す人:内田栄治さん  ★昭和60年(1985)4月取材

   
  
急流だつた多摩川

 子供の時分、東調布第一小学校の高等科、そこを出たっきりですよ。もっと勉強したい人は、丸子の渡しに乗って小杉の安楽寺っていう寺に行ったんですがね。勉強どころか、渡しの向こう岸とこっち岸で顔合わせりゃ、石を投げっこしてケンカばっかし。私ら、ガキ大将でしたからね。
 昔の多摩川は、今の川幅にくらべりゃ、ずっと狭く、ずっと水が多かった。そしてすごい急流だったね。丸子の渡し場のすぐ下なんて坂みたいな急流。そこを船を漕いでのぼるのは骨が折れる。坂みたいな急流を瀬≠チていうんですけど、その瀬をあがれる人なんか、幾人もいないのです。向こう岸では新丸子の日枝神社の近くにやっぱり、そういう瀬が……。砂利を掘る船がね、川崎の平間や古市場の方から川上にあがって行くんだが、綱で引っばってあがって行く。「ウー、ホイ、ウー ホイ」って掛け声でみんなが気合いを入れてねえ。その声が家でよーく聞こえたもんですよ。

 今の多摩川、あれじゃ、水が流れているのか、止まっているのか、全然わかんない。

  沼部側に近寄る流れ

 東横線の鉄橋のちょっと上流の方から、多摩川は大きく曲がってるでしょ。そのためにね、大水のたびに水が砂を新丸子側に持って行ってしまってね、その分、川の流れはだんだん、沼部のこっち側へ寄ってきちゃったんですよ。
 私ら子供時分にくらべりゃ、川が10尺ぐらい、こっち側に寄ってきてますよ。
 だって、今の土手の中に家が5軒も6軒もあったんだからねえ。若松屋っていう料理屋、船大工、それから農家が3軒ばかし。みんな、大水で流れちゃった。今みんながタコ揚げしたりして遊んでいる場所、あそこは全部畑でしたよ。
 自然の地形っていうものも、時代とともに変わるもんですねえ。

   愉快な魚捕り

 子供の頃は、よく魚捕りして遊びましたよ。多摩川の急流でね、舟に綱を付けておいてね、丘で引っばるんですよ。で、舟がぐっと急に曲がるから、水面が日陰になる。すると、魚の連中びっくりして飛びあがり、舟の中に飛び込んでくるわけですよ。ウグイやアユの、こんな大きなやつがねえ。帰りには、仲間と分けて持ち帰るんだけど、家中で食べる分、つかまったもんですよ。
 親父なんかと一緒にやった魚捕りは背干し≠チていう捕り方。土を入れた俵を持って行ってね、石と土俵で堰止めて流れを変えちゃう。そして下流に網を張って上流から追い込む。魚は水がなくなるから、背中が見える。で、背干しっていうんでしょねえ。
 親父も私も投網が好きで、ずいぶん網打ちに行きました。そしてよく親父とケンカしたねえ。私は竿をさす。親父が網を打つ。水がきれいに澄んでいたから、魚の動きがじつによくわかる。とくに網を打つ親父は、魚の姿がよく見える。私は親父が指図した方向に一生懸命舟を漕いでいるんだから、魚が見えない。すると親父が怒鳴るんですよ。「あっちじゃねえ、こっちだァ」。あんまり何度も怒るから、こっちも頭にのぼせてね。親父が腰を入れて全身で網を打とうとする瞬間、舟をバッと停めちゃうんですよ。

     イラスト:石野英夫(元住吉)

内田栄治さん

 明治43年(1910)7月、
大田区田園調布本町で生まれ育つ。東調布第一小学校を出て、鳶細野で修業。日本電気且O田工場の工事係に勤務の後、戦後「鳶内田」を設立、自営

すると人間だけが前にほうり出されちゃって……。親父をおっぽり出して、さっさっと逃げちゃう悪い息子でした。
 水が澄んでいたから、白魚もいましたねえ。鉛筆くらい大きいのが。天ぷらにすると、美味しくてねえ、アユよりよっぽど旨かった。それと、マルタが捕れましたねえ。若葉の季節になると、子を産みにあがってくるんだけどね。大きいのは、腹に子がいっぱい。バケツに何杯も捕れることも。このマルタの子とタケノコを煮て食うと、それは旨いもんです。あの昧は忘れられませんねえ。あれほどいたマルタ、今はどこへ行っちゃったんでしょうかねえ。

 根っこ坂と干し大根

昔のさくら坂″は、私ら根っこ坂≠チて呼んでました。坂の途中に赤門という赤い門の大きな農家があって、そこにでっかいケヤキの木の根っこが崖ぶちをえぐっていてね、それはすごい様相でした。今は緩やかで長い坂ですけど、昔は一気に上る短い急坂でした。坂の上り口は坂口という屋号の森さんの家、その向かいの高い所に私らのおじさんの年代の人たちが通った小学校。これが今の東調布第一小学校の前身。
  家で採れた野菜、これを神田市場へ持って行くときは、私は夜中の2時頃起きて、親父の荷車の後を押すんです。根っこ坂、洗足の坂、そして一番大きな五反田の大崎猿町坂上まで後押しして、それから家に帰って学校に行ったんですよ。
 この辺(沼部)の名産は、干し大根。11月というと、どの家でも大根を洗って干したもの。それを荷車で運ぶのが大変だから、みんな川崎まで船で持って行ったんです。


   寂しい田園調布と落合さん

 田園調布という所は、人家が無く、寂しくておっかないほどでした。今の修道院の所に落合万之助っていう人がいましてね。この人が、今の田園調布で一番大きな地主だったですよ。とにかく8町歩ほどの土地があったらしいね。この人がハンを押さなきゃあ、田園調布はあんな風にはならなかったんですよ。ほうぼうの農家が、先祖伝来の土地だけはなにがなんでも売らないと頑張っていたのに、「落合さんでハンコ押しちゃったんじゃあ」と、みんな同調したんですからね。落合、熊笹、猿渡、追川といった姓の農家が10軒あってねえ。今はみんな、よそに引越しちゃいました。当時の面影は、今じゃぁ、宝来公園だけ。ここの池は田んぼの跡でねえ。ここだけを田園都市という会社が昔のままに残しておいてくれたんです。

   銭を取らないお医者さん

 私ら若い頃、池上が沼部よりちょっと賑やかだったですねえ。どちらも、今の時代にくらべりゃ、問題になりませんけどねえ。子供時分、この辺には一軒もお医者さんが無かったんですから……。一番近い所で等々力の阿久井さん、小杉の女の医者田辺さん、あとは池上本門寺の下の斉藤さん、とこの3軒しか、医者はいなかったんです。
 近いのは池上の斉藤さんでしたが、私らは等々力の阿久井さんによくかかりましたよ。お説教する恐い先生だけど、いい医者でしたねえ。「このヤロー、また夜遊びしてきたな?」と怒っても、「おい、銭ができたら持って来い!」と優しい。こっちはいくら怒られても銭をとられねえんだから、いいお医者さんだ。
 こんなお医者さん、今の時代、いるかねえ?


                取材・文:岩田忠利



             昔の沼部界隈(大正末期から昭和初期の旧中原街道)

 明治・大正期の沼部かいわいは、近在の町の中では門前町の池上に次ぐ賑やかさでした。
 江戸時代の中原街道は、「相州往還」や「江戸新道」とも呼ばれ、参勤交代の通過や物資の陸上輸送が頻繁でした。と同時に沼部は丸子の渡しの渡船場があり、多摩川の上下流の水上輸送の拠点でもありました。

 上のマップで見る時代には多摩川に関連した業種が目につきます。渡しの船頭、砂利運搬の荷馬車用の馬小屋、上流から筏(いかだ)で材木を運ぶ筏師の宿、木挽き屋、そして砂利運搬の村民も多かったようです。

 大正12年、さくら坂の切り下げ工事が実施され、その勾配は緩やかになりました。今でも旧道の一部が割烹大国の前に残っていますが、それは急な坂です。

 
◆本誌「とうよこ沿線」昭和60年6月1日発行第28号から転載。文・編集:岩田忠利/イラストマップ:石野英夫

     大正・昭和初期の沼部情景



 大正14年12月、沼部上空から開園したばかりの多摩川園遊園地と多摩川を望む

 東横線の多摩川橋梁は完成していますが、まだ東横線は開通していません。翌年15年2月に丸子多摩川駅(現多摩川駅)〜神奈川駅間が最初に開通、目蒲線に接続し目黒まで行けるようになりました。その先、丸子多摩川駅〜渋谷駅間が開通したのは、その翌年、昭和2年のことでした。
 丸子橋はまだ架橋されず、多摩川の左岸に丸子の渡しの渡船場と右岸に沼部の渡船場の施設らしき物が見えます。六郷用水が白く太い線で沼部に向かってくっきり描いたようです。
 撮影:渋沢秀雄さん(田園調布3丁目。田園調布会・会長)


   大正9年(1920)3月、多摩川で軍事教練

 後方は浅間神社。東横線の鉄橋も調布堰も、もちろん丸子橋もありません。
 提供:杉田屋呉服店(田園調布本町)




     写真左と同方向の現在(2013.3.26)

 浅間神社の森は、後方中央のアーチの根元に隠れて見えません。
撮影:岩田忠利


  東光院前、六郷用水の橋の際で。撮影年号不明

                     提供:森 米穀店(田園調布本町)

 昭和初期の御大典記念か、町制施行で東調布町になったときの記念写真か……。生存者が一人もいないため撮影目的や状況が不明です。
 アーチの右柱に「東調布町」と大きな文字が目立ちますので、昭和3年4月1日に調布村が町制施行で北多摩郡調布町との重複を避けるため改称し「東調布町」となった時ではないかと思います。

 この写真を掲載した本誌「とうよこ沿線」第28号(昭和60年6月発行)をご覧になった、杉並区浜田山の主婦の方から当方に電話があり、たいへん感謝されたことがありました。
 戦災ですべての写真を焼失し、父親の姿が写る写真が一枚も無かったそうですが、この写真の中に写っている父親を発見し痛く感動したとのことです。ついては、掲載誌からこの写真を複写し、家に保存したいので、その転載許可をお願いしたいという用件でした。沼部から杉並の浜田山に嫁いだ女性からでした。


昭和5年、品鶴線の下を通過した砂利舟

 江戸時代から明治・大正・昭和と掘り続けた多摩川の砂利。この砂利は東京・都心のコンクリートのビル建築用材と使われ、その需要は年々増加の一途を辿ってきました。その乱掘の結果、多摩川の川床の低下で、水位が下がり、橋梁や堤防の危険防止のため、昭和10年に採掘禁止になりました。
 写真提供者の菊地金治郎さんは、砂利採取業「菊地組」の社長で昭和6年に東急の砂利採取専属請負人となり、従業員約200人を抱えるほどまで成長しました。砂利採掘の関連情報は、川崎中部編NO.13をご覧ください。
 提供:菊地金治郎さん(川崎市中原区等々力



    東調布第一小学校の屋外授業

  提供:冨川幸一さん(田園調布1丁目)



東調布第一小学校校舎

提供:冨川幸一さん(田園調布1丁目)

上の写真2枚について撮影年数・状況についてお分かりの方、お教えください。


  写真左の東調布第一小学校。昭和60年4月撮影

                         撮影:一色隆徳さん(祐天寺)

 この校舎は昭和55年3月完成。同校の創立は明治11年9月、大田区では7番目に古い学校です。田園調布小学校は同校の分校として開校し、昭和3年4月に独立しました。







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