昭和5年(1930)、東口上空から西口を望む。右上に玉川浄水場、左上に多摩川
               
                                    提供:森 総治さん(田園調布2丁目)

 線路の左手に東横線と目蒲線(現目黒線)が通過する“開かずの踏切”が見えますが、これは昭和39年東西口を結ぶ地下道が完成しその問題は解決しました。
 この写真の昭和5年は、写真提供者の森 総治さんが小学校6年生のとき。宝来公園でホタル狩をしたり、浅間神社前の田んぼでドジョウを捕ったり、家族で多摩川の屋形船で鵜飼に興じたり、少年時代の思い出が詰まった年でした。



      昭和2年(1927)9月、森総吉邸に見えた財界の重鎮、渋沢栄一翁
         
                              
提供:森 総治さん(田園調布2丁目)
       
 この日は目蒲線全線開通祝賀会の日。森総吉さん(前列5番目。写真提供者・森総治さん祖父)は城南地区を代表する有力者で目蒲線全線開通に尽力したことに謝意を述べるためでした。沿線の名士が渋沢栄一翁(ステッキの人)と左に並ぶ渋沢秀雄さん(田園都市鰹d役)を囲んで。小学校3年の森総治さんは前列6番目。


今の田園調布と対比してご覧ください



昭和9年、パッチ姿の車夫と流行のラッパズボンの人

 バックは左に駅舎、後にトイレ、その前に人力車。この場所にいつも4台の人力車が客待ちをしていました。
 料金は遠くて50銭、近くて30銭。チップが平均20銭。東大出の月給が65円から70円の時代に、車夫の1ヵ月の稼ぎが150円から200円だったというから、彼らにとっても田園調布はいい所だったようです。
 写真左から2番目の車夫、中島さんは隣町、奥沢の人で医大を出て医者の住み込み見習いの“お医者さん”でしたが、兼業に車夫もやっていましたが、ついに本職の車夫に。それが68歳の高齢まで人力車を引き、戦後「田園調布の無法松」と呼ばれ、親しまれていました。
 提供:河原文夫さん(田園調布3丁目)




   昭和12年春、駅前で談笑する車夫4人と巡査
         
提供:河原文夫さん(田園調布3丁目)

 当時から日本を代表する住宅街であった田園調布には各界を代表する人物が住んでいました。
 財界では矢野恒太(第一生命社長)、犬丸徹三(帝国ホテル社長)、篠原三千郎(東急社長)、森永太平(森永製菓社長)。政治家や軍人では松本丞治(商工大臣)、船越少佐(軍艦三笠参謀)。文化芸能面では岡鬼太郎(劇作家)、本多光太郎(東北帝大教授」)、小絲源太郎(画家)、汐見 洋(新劇)、大日方 伝(俳優)、もちろん「田園調布育ての親」といわれた渋沢秀雄さん(東宝社長、随筆家、画家)も住んでいます。



  昭和6年の田園調布尋常小学校と象徴の青塔

                提供:森 総治さん(田園調布2丁目)

 数々の名士の子弟が学んだ田園調布小学校、その同窓会の名称は「青塔会」です。
 しかし残念なことに、昭和20年4月3日のB29の爆撃で、この塔は一瞬のうちに消え去りました。その寸前、塔の上で見張り番をしていた石田辰男さん(石田豆腐店・店主)は機銃掃射の犠牲になりました。











          昭和7年、商店街「福徳会」発足

 昭和7年」4月3日、田園調布2丁目の福徳弁財天付近の商店が集まり、商店街「福徳会」を結成しました。
 左から4人目のメガネの人が建材店の宮門枡次郎さん、会旗を持つ人が東急勤務で雑貨店も営む八木熊太郎さん、その右横前列の和服の人が八百森の森輝太郎さん。
 提供:宮門一興さん(田園調布2丁目)


昭和7年、市郡併合と社団法人田園調布会設立祝賀会

 表記の祝賀パーティーが宝来公園で開かれ、たくさんの来場者で賑わいました。
 撮影:渋沢秀雄さん(田園調布3丁目。田園調布会・会長)


  昭和17年、田園調布国民学校初等科の運動会

                
提供:白須脩夫さん(田園調布2丁目)

 日中戦争後の昭和16年に国民学校令が発令され、尋常小学校を国民学校初等科(修業年限6年)、高等小学校を国民学校高等科(修業年限2年間)とすることに。





昭和15年10月、「紀元二千六百年祭」のアーチ

このアーチを建てたのは東口の商店街「旭野会」でした。
提供:白須義一さん(田園調布2丁目)


写真左の同じ場所の現在(2013.3.21)

撮影:岩田忠利





   昭和18年、中島平八さん(タスキがけ)出征

 前列で楽器を持つ地元の青年6人が音楽隊を結成し、彼らが演奏する「出征兵士を送る歌」に合わせ、肉親・隣近所・友人知人らが歌い、出征する中島平八さん(中島靴店)を見送りました。
 提供:宮門一興さん(田園調布2丁目)















昭和16年から23年まで宮門商店で活躍した牛

 建材店の宮門商店がトラックを購入するまで、この牛は7年間も資材運搬の“店員”としてどんな待遇でも文句も言わず、ひたすら働いていました。
 
 宮門
さんが田園調布から相模原まで引越し荷物の運搬を頼まれたときのことです。無事荷物を届け、一安心したら帰り道をすっかり忘れてしまいました。さーて、困った。 
 牛の眼を見たら「手綱を持って後の荷台に坐っていろ!」という眼つき。そのまま荷台に乗っていると、ちゃーんと来た道を覚えていて、トコ、トコ、トコ、トコ歩いて丸子橋を渡り、店まで帰ってきたそうです。
 提供:宮門一興さん(田園調布2丁目)

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校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利

NO.2 田園調布の情景と人間模様