校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利

MAP:田園調布駅・多摩川駅地区


        草創期の田園調布
                                       撮影・提供:渋沢秀雄さん(田園調布3丁目。田園調布会・会長)


大正12年10月、分譲地発売当時の宝来公園付近





  大正12年11月、分譲地発売後、渋沢邸の西方

 現在の3丁目の渋沢さん宅から西方を見ると、一面の畑。田園調布一帯はこんな畑でした。

 


大正末期、慶明戦・早慶戦が行なわれた田園球場

この田園球場は田園小学校と田園コロシアムの下にありました。

 撮影:渋沢秀雄さん(田園調布3丁目。田園調布会・会長)






写真左の田園球場があった田園コロシアム付近の現在

2013.3.21撮影:岩田忠利








   大正13年(1924)、宅地造成後の田園調布

 この造成は写真提供者、渋沢秀雄さんが支配人で活躍した田園都市株式会社が大正7年3月に取りかかり、関東大震災の1ヵ月後、大正12年10月から「多摩川台分譲地(田園調布のこと)」として売り出しました。
 二重回しのマント姿の人が立つ場所は現在の西口中央通り。




写真左から89年後の同じ場所、西口中央通りの現在

イチョウの木は、剪定した枝が芽吹くのはこれから。
2013.3.21撮影:岩田忠利








  大正13年、田園調布駅と車に乗り込む渋沢栄一翁

 車に乗り込む渋沢栄一翁の後ろに立つ人は子息の渋沢秀雄さんです。
 渋沢栄一翁は、国立第一銀行(のち第一勧銀)や東京証券取引所など多種多様の会社の設立・経営にかかわり「日本の資本主義の父」と呼ばれる財界の指導者。引退後は「田園都市構想」を提唱し、子息の渋沢秀雄さんをイギリスなどの西欧諸国に派遣し“田園都市造り”の実践を勉強させました。
 帰国後の渋沢秀雄さんは田園都市株式会社の支配人として洗足、調布村、大岡山などの土地買収に奔走して活躍します。それがのちの東京横浜電鉄鰍フ前身となり、今日の東京急行電鉄梶i東急)へと発展する礎となりました。
 
 昭和57年5月に「とうよこ沿線」第11号で田園調布特集を発行するため、私は田園調布駅西口の宝来公園通りの入り口にある田園調布会の事務局へよく出向きました。そこには会長・渋沢秀雄さんの補佐役で副会長の山口知明さんがいて、「田園調布の生き字引」と言われるこの方が、いろんな楽しい田園調布情報を提供してくださるからでした。
 
 なかでも忘れられないのは、渋沢秀雄さんのエピソード。税務署にコンピューターも無い昔、税申告をしたことを忘れて二度も税申告したり、買い物の請求書がポケットから出てくるたびに支払ったことを忘れて二重払いすることなどは日常茶飯事だとか。
 以下の話は山口さんからも聞いたことですが、渋沢秀雄さんご自身が東急の社内誌『清和』の「創立30周年記念特集号」に投稿されています。その一部を紹介します。


      創業時の思い出  渋沢秀雄

 田園都市は“Garden City”の語訳である。会社は、最初、事務所を大手町の日清生命館内に置いた。よそへ電話をかけるたびに、私は社名が通じないので弱った。
 「こちらはデンエントシです」と絶叫しても「は? デンセン? デンセンボチ? 伝染病の墓地?」
 縁起でもない。「違います。タンボの田に動物園の園、それから京都の都に東京市の市、田・園・都・市になるでしょう」、「はあ、なるほど、田園都市」、やれ嬉しやと思うとたん、「何です、それは?」
 ある日、社用の電報を打ちにゆき、局員が料金を計算するあいだベンチで待つ。すると窓口から「タゾノさん」、「タゾノトイチさん」と呼ばれ、ハッと気がついたことなどあった。すべてこれは、関東大震災以前ののどかな夢である。
 

    昭和7年、西口の家並み



    昭和7年(1918)、田園調布駅西口の家並み

@駅舎 Jテニスコート付きの三菱銀行重役・青木邸
A西口駅前広場 K浅野セメント社長・田中藤作邸(のち、女優小暮美千代邸)
B郵便局 L米倉商会社長・米倉準平邸(自家用車第1号)
C理容河原 M金光教の教祖・大場 宝邸
D田園調布会事務所(木造2階建て) N洋画家・岡鹿之助(文化勲章受章)邸
E海軍中将・楠瀬雄次郎邸 O神田の目黒書店社長・鈴木慎二邸
F一族同居の豪邸、東芝重役・安達繁邸 P友愛幼稚園
Gチューリップなどの栽培、稲田農園 Q現存する兼坂家
H渋沢秀雄邸(電気館)とその前に花壇 R萬有製薬重役の家
I日動火災社長・粟津清亮邸 S現在の環八通りの旧道
                       情報提供:河原文夫さん(田園調布3丁目) /  写真提供:社団法人 田園調布会

         
           往時の町角散策



      昭和16年の田園調布西口駅前広場

帽子に着物姿の男性、自転車の店員風のお兄さん、国旗たなびくのどかな駅前風景。後方の2階家が宇井家、右隣が平川雑貨店、左手の松の木は、山内男爵のお屋敷。山内さんは、あの安土桃山時代の武将、山内一豊の末裔だそうです。
 提供:渋沢秀雄さん(田園調布3丁目。田園調布会・会長)


写真左と同じ方向の現在(2013.3.21)

撮影:岩田忠利








  昭和11年、田園調布のシンボルゾーン、西口駅前

 駅舎は関東大震災後の大正13年の建造。駅舎2階に「ビナス美容室」の看板が見えます。この美容院は昭和9年から太平洋戦争勃発直前までありました。
それ以前の昭和初期は「ヂグス堂」というレストランでした。駅舎が田園調布で最も高台にあり、そこの2階からは四季折々の富士山の雄姿、多摩川の流れ、九品仏の森、東工大の時計台などの風景を楽しめました。ここでビールを飲みながらの談笑は格別で、田園調布の人々の憩いのサロンでした。
 提供:河原文夫さん(田園調布3丁目)



写真左の現在(2013.3.21)の西口駅前

撮影:岩田忠利











  昭和10年、宝来公園通り。突き当りが宝来公園

 イチョウの木はまだ細い。道は簡易舗装でしたが、周囲に樹木が多く、空っ風が吹いても砂塵が舞うことはありません。西口駅前に降り立つと、ほのかに木の香りが漂い、家路に向かう途中、野ウサギに出会うこともありました。

 提供:渋沢秀雄さん(田園調布3丁目。田園調布会・会長)


   写真左と同じ方向、77年後の現在(2013.3.21)

 イチョウの木など周囲の樹木は大木になりましたが、77年経っても静けさは変わっていないようです。
 撮影:岩田忠利







 大正14年、東口駅前通りに初の開店、長生堂薬局

 駅舎完成の翌年、大正14年8月2日、祖父・長谷川米吉さんが製薬会社の役員を退職して田園調布で初めての薬局を開業しました。イチョウの木は植樹したばかり、道路には小石が敷かれ、創成期の田園調布そのもの。戦災ですべてが焼失した長谷川家でしたが、この写真だけは母親・愛子さんが肌身離さず持っていたために助かりました。
 提供:長谷川博さん(田園調布2丁目)

    
       写真左と同じ場所の昭和60年4月


 右手に女学生が通る店先が長生堂薬局です。60年間で立派な商店街になった旭野会。
 
撮影:一色隆徳さん(祐天寺)








昭和19年、太平洋戦争末期の田園調布会

撮影:渋沢秀雄さん(田園調布3丁目。田園調布会・会長)


写真左と同じ場所、社団法人田園調布会会館の現在

撮影:岩田忠利


     昭和11年、西口駅前の調布理容館

 横文字の看板と外車を見るかぎり、外国の店頭を思わせますが、じつは当時の住所は「東京府下荏原郡調布村字下沼部360番地」と長たらしく、ハガキに1行で書ききれなかったというからアンバランスで面白い。
店先の高級車は外車のスチュードベーカー、お客さんの地主延之助さん(日本陶器鰹d役)がこの車に乗ってよく整髪しにやってきていたそうです。
 提供:河原文夫さん(田園調布3丁目)





昭和9年、駅前交番とサーベルを下げた巡査

当時は大森警察署旭野駐在所といい2人の巡査による2交替勤務。巡査部長といえば大変な権限があったようで、部下が居眠りでもしようものなら、「キサマ、何シトルゥ!」。その怒号は大きく、迫力があり、静かな田園調布にこだまするほどだったとか。

提供:河原文夫さん(田園調布3丁目)

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