校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.3
敗戦から復興への歩み、武蔵小山の点描
       
      
 焼土からの復興、発展の軌跡  定点撮影:後地交差点から



昭和11年2月4日大雪の翌日、京栄会通り。星薬科大学方向を望む

提供:石井悌次郎さん(小山2丁目)
←被災前


   昭和20年秋、同年5月25日の空襲で焼け野原となった写真上の方向

 空襲から半年後の光景。後地小学校の子供たちが朝靄のなか登校する姿が見えます。
 右手の店は焼け残りましたが、小山2丁目から荏原1〜2丁目方面一帯が焼け野原です。焼け跡にバラック小屋が建っています。後方のシルエットは焼け残った鉄筋コンクリートの星薬科大学の講堂。
 このときの空襲は、武蔵小山商店街では銀座通りを除き全域を焼き尽くす壊滅的な打撃を与えたのでした。
 撮影:石井悌次郎さん(小山2丁目)
←空襲半年後


昭和63年5月、43年後には見事に復活した京栄会通り

撮影:岩田忠利
被災から43年後
 
     
武蔵小山商店街関係者1030名が渡った「東京荏原満蒙開拓団」

  ソ連参戦後、逃避行の末、母国にたどり着いたのは、1030名中、たった13名・・・。その一人、足立守三副団長の生々しい記録



足立副団長が開拓団の悲惨な最期を報告した本

 足立さんは帰国後、亡き団員や家族の慰霊碑建立のため奔走していましたが、昭和45年9月29日、残念ながら他界されました。その直前、「私はもう77歳。いつ死ぬかもしれないので、ここにすべてを書き残す」と綴ったノート3冊と団の最期を語るテープ5巻を残して逝きました。
 生還者13名のうち大人は5〜6名。大半が戦死あるいは自決の最期でした。この凄惨な記録が足立さんの手記やテープにドキュメントとして残っています。これを恒友出版社取材班がまとめたのがこの本です。

 戦前の武蔵小山商店街を築いた人々の多くが、太平洋戦争終結の2年前、満州に新天地を求めて移住しました。そこにどんな悲劇が待ち受けていたのか……。
 今も密かに語り継がれ、商店街の人々の心の支えになり、活動の原点になっている満蒙開拓団秘話。

 この本は、生きるということを考えるすべての人に一読をお勧めしたいです。
 出版:「曠野に祈る」 恒友社



   朗惺寺にある満蒙開拓団 慰霊碑

 朗惺寺は駅から来ると武蔵小山商店街のアーケード中程を左に少し入った所です。
所在地:品川区小山3-21-6 TEL03-3781-2876














           終戦後、武蔵小山の街角



 昭和23年、戦災から立ち上がり、商店街の仮装行列

 戦争からの解放感から街に繰りだす人で通りは人で溢れています。
 提供:中村博一さん(大勝堂。小山3丁目)


   昭和25年、照明は裸電球の靴屋さんの店頭

 靴に目をやるお客さんの仕草や服装にも落ち着きが感じられます。
 提供:中村博一さん(大勝堂。小山3丁目)


  昭和24年9月、戸越八幡神社の祭りに子供神輿

 場所は後地交差点。男の子は一人の子を除いてみな坊主刈りですね。
 撮影:石井悌次郎さん(小山2丁目)



     昭和29年、駅前の路地で遊ぶ子供たち

 左の写真撮影時から5年が経ち、子どもたちのヘアースタイルが変わりました。長髪です。世の中、経済的な余裕が出てきたようです。
  提供:中村博一さん(大勝堂。小山3丁目)

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