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昭和6年、政府払い下げの米の安売り
場所は西小山駅に近い目黒本町6丁目・向原小学校。対象は関東大震災で被災し移住してきた生活困窮者や失業者です。
この時代は世界的大不況とも重なって被災移住者の生活は深刻でした。
昭和4年まで大工の手間賃は一日2円50銭内外でした。それが昭和6年には一日1円も稀で、しかも1カ月に10日程度の仕事しかありませんでした。
資料:「碑衾町誌」
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昭和7年開設、城南地区最古の荏原電話局
荏原電話局は、碑衾町(現目黒区)と馬込町(現大田区)と平塚町(現品川区)の3カ町有志の合同寄付で実現しました。
寄付金の目標は5万円でしたが、電話架設希望者一人に100円の寄付を割り当てたところ、予想外の反響ですぐに目標を達成してしまいました。その5万円で敷地600余坪、建坪300坪余りの事務所(写真)・機械装備・附属建物などが整いました。
資料:「碑衾町誌」
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昭和11年、武蔵小山にある学校
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昭和11年の武蔵小山駅前。中央の建物は府立八中(現小山台高校)、校舎右手が駅
手前の点線部分は、昭和38年に開通した「26号線」建設のため立ち退きした地域で、右へ中原街道、左へ目黒通りです。往年の歌手・織井茂子の実家「カフェー花園」が線路際にあり、点線からすれすれ外れ、転居を免れたようです。
昭和11年すでに、ご覧のように目蒲線をはさんだ左手の西口、右手の東口も住宅や商店でびっしり埋まっています。
戦争が激しくなった昭和19年、西口の関門通りの西側片面と右手東口駅前の三角地は空襲による延焼に備えて取り壊され、強制疎開させられました。
ここで名門校、小山台高校のOBについて触れておきましょう。各界をリードするOBは枚挙にいとまがないが、私たちに馴染み深い人を思いつくままに。精神科医で作家の齋藤茂太、写真家の秋山庄太郎、評論家・筑紫哲也、東日本大震災時に苦労した総理大臣の菅 直人、トラさん映画の監督・山田洋次、キヤノン元社長の御手洗肇、後継社長を従兄弟から任されたキヤノン社長・御手洗富士夫らです。
提供:山崎 修さん(小山3丁目)
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昭和11年、昭和3年創立の後地小学校運動会
提供:石井悌次郎さん(小山2丁目)
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戦災で7年半で閉鎖、東原小学校の朝礼。昭和19年時
震災後、武蔵小山駅と西小山駅に近い向原小学校の学区は児童数が急増し、収容能力を超えました。その緩和策として写真の東原小学校が開校しました。
一時は児童数が1000名を超えましたが、この写真の翌年、昭和20年5月の空襲で全焼……。同校は向原小学校に統合され、在校生は向原小学校の生徒に。結局、東原小学校の校名が続いたのは、7年6カ月の短い歳月でした。
提供:市島柔道館(目黒本町6丁目)
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昭和12年、中原街道の歩道上に突き出た樹齢300年の大ケヤキ
ケヤキの持ち主は中央の家の当主・芳根弥三郎さん。中原街道新設工事の際、役人が再三伐採を強要しましたが、「先祖が代々大事にしてきた生き物だ。わしの一存で返事はできない」と弥三郎さん、ガンとして切らせなかったそうです。
現在、この大ケヤキ切り株の所に芳根家が祀る「木霊稲荷堂」があります。又の名を「ふしぎいなり」と言って大ケヤキの霊を慰めるほこらだそうです。
提供:南 博さん(中延2丁目)
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写真左のケヤキのあった現在地
2013.6.6撮影:石川佐智子さん(日吉) |
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写真左の大ケヤキを祀る「木霊稲荷堂」
2013.6.7撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和13年、旧中原街道の現荏原2丁目17番地
通る車といえば、ほとんど自転車と荷車、静かな町並みです。
提供:戸張尚子さん(荏原2丁目)
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写真左の旧中原街道、現在地
左手に古いたたずまいの戸越地蔵さんがあり、ここにはベンチと水道があるので一休みできます。
2013.6.5撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和13年、中原街道を兵隊さんがゆく
兵隊の行列が中原街道の平塚橋から五反田方面に向け行進しています。
カワラ屋根は銭湯の戸越湯、右隣は田中ガラス店。
提供:戸張尚子さん(荏原2丁目)
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昭和13年、星薬科大学に駐屯の帝国陸軍兵士
前年の昭和12年7月7日に起きた現中国の盧溝橋事件に端を発し、わが国大日本帝国の近衛内閣と中華民国(蒋介石政権)との間で「日中戦争」に突入しました。
全国が戦時態勢一色に包まれ、武蔵小山でも毎日兵隊の姿を見かけるようになりました。
提供:戸張尚子さん(荏原2丁目)
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