校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.19
 駅開設後大きく変わった鴨居の風景


    昭和2年、鴨居尋常小学校の裏をSLの貨物列車がゆく

 校舎右手の建物は鴨居巡査派出所(=交番)、その手前の建物が教員宿舎です。

  資料:昭和3年発行『新治村々勢概要』

 
  地名の由来と近年の鴨居駅

 地名「鴨居」の由来は諸説がありますが、一説には文字どおり鶴見川が運んだ肥沃な堆積土に芦が生え、鴨の生息に格好の場でたくさんの鴨が居たというものです。
 またアイヌ語の「カムイ」が「カモイ」となったとか、神の居た所の「カミイ」が「カモイ」に訛ったという説もあります。(『鴨居史』参考)
 
 ともかく鴨居地区は昭和37年12月に住民の手で鴨居駅を開設するまで純農村地帯でした。これを境に次々と分譲住宅団地や大企業の工場などなどが出現し人口は急増、通勤・通学者が年々増え続けました。
 そこで昭和51年10月に新駅舎が完成、さらに平成10年12月、橋上式駅舎に姿を変えました。 その当時の鴨居駅の乗客数は横浜線20駅中、町田駅に次ぐ2位を誇っていましたが、隣駅の中山駅に地下鉄グリーンライの乗り入れで、近年は中山駅と7位から9位の順位争いを抜きつ抜かれつ展開しています。ちなみに2009年の統計では一日平均乗客数3万7828人で9位です。


          鴨居駅周辺の変貌


昭和38年12月、駅開設1周年、現白山地区センター裏から鴨居駅方面を望む

右端の家は鴨居5丁目の柳下 勤さん宅です。    
提供:柳下 勤さん(鴨居)



平成14年12月、上の写真と同方向をローヤルシティ鴨居六番館から望む

撮影:宿崎貞夫さん(町田市)


昭和45年、鶴見川土手から県営住宅・林光寺・宝工業を望む

駅開設から7年余りが経ち、建物が続々と建ち始めました。  
提供:柳下 勤さん(鴨居)


平成14年12月、上の写真と同方向を鶴見川土手から望む

右手前は鴨居自動車学校の練習コース。
     撮影:岩田忠利
     
         竹山団地周辺の造成前後

                                            撮影:村野研一さん(鴨居)

    写真AとB、写真CとDは連続するパノラマ写真です。



写真A 昭和44年、竹山団地の造成が始まる


写真C 平成11年10月、上の写真と同方向を望む


写真B(Aの右端に) 昭和44年、緑小学校と鴨居中学校の造成が始まる


写真D(Cの右端に) 平成11年10月、上の写真と同方向を望む



              街角の今昔



昭和34年、現鴨居駅東交差点。中央後方は菅田道路

中央の人は写真提供者・柳下勤さんの父・一作さん。

提供:柳下 勤さん(鴨居)


写真左の現在。後方交差点「鴨居駅東

2013.10.17 撮影:石川佐智子さん(日吉)




昭和35年、旧鴨居小学校(右手が校舎)下の道

提供:黒滝 稔さん(鴨居)


写真左の旧鴨居小は現在マンションに

 2013.10.17 撮影:石川佐智子さん(日吉)





昭和40年、鴨居4丁目の杉山神社参道

提供:濱田雪江さん(白山)


写真左の現在の杉山神社参道

2013.10.17 撮影:石川佐智子さん(日吉)




昭和46年、鴨居5丁目の山砂採掘現場

左上が現在鴨居中学校。

提供:柳下 勤さん(鴨居)
 珍重された鴨居や白山の山砂

 鴨居や白山の丘陵地から出る山砂は、粒子が細かく良質なため道路建設資材として珍重され大量に使われました。
 昭和4647年の頃、わが国は貿易の国際収支が史上最高の黒字、それに拍車をかけたように田中角栄内閣の日本列島改造論による空前の土地ブームに沸きました。

 昭和47年度の高額所得者上位100人中94人が土地成り金。企業の土地買占めが社会問題となる時世でした

 鴨居や白山の丘をブルトーザーが唸りを上げて削るそばから山砂は列をなすダンプに積まれ、東京や横浜の建設現場へと運ばれたのでした。




    昭和51年、鴨居駅方面から望む旧鴨池人道橋
                               「緑区制3周年記念誌」から

 旧鴨池人道橋は都筑区池辺町の日本電気と松下通信工業の社員の通勤のために両社の工事費負担で木造の橋が昭和436月に架けられました。



   写真左の現在の歩行者専用、鴨池橋

 現在の橋は平成33月、横浜市が建設費全額負担で架け替えました。

  平成14年 撮影:村野研一さん(鴨居)




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