比較的平穏な時代、昭和初期


 中山地区が属していた新治村役場(大正3年落成)
                           『新治村村勢概要』から

 新治村という村は、明治22年(1889)から昭和14年(1939)まで50年間続き、現在の緑区内の町では、東本郷町、鴨居町、中山町、寺山町、台村町、三保町、新治町、十日市場町の8町が新治村に属していました。


写真左の新治村役場を昭和3年に落成

民家風建物が近代的なものになりました。

 『新治村村勢概要』から





村役場が防空演習の本部になりました。
提供:土井重治さん(台村町)










防空演習に使われた高いやぐら
提供:土井重治さん(台村町)


     昭和初期、駅前通りの道路新設起工式

 左手の切り通しは、現バス停「台村町」からの登り坂、通称「ドレミの坂」です。

  提供:土井重治さん(台村町)



写真左の通称「ドレミの坂」は前方左折の道

2013.10.12 撮影:石川佐智子さん(日吉)



 昭和7年中山で最初の料亭「みかさ」開店

 八十代の男性にこの写真を見せたら、こんな話が返ってきました。「みかさは近在で唯一の料亭で繁盛していた。店には美人の女性がいてね、その娘目当てに若い衆がよく通ったもんですよ」
  提供:加藤吉行さん(台村町)





  昭和10年、駅前の便利屋呉服店の上棟式

 2階の屋根には五色の幣串が揚がり、宮司、施主(右から3人目・初代の斉藤喜一さん)、親戚、大工の棟梁、鳶のかしら らが並び、丸餅が入った真新しい俵が7俵も・・・・・・。また 2階には「便利屋呉服店」染め抜きの半纏姿の職人たち。写真手前には、おそらく今か今かと“投げ餅”を待つ人たちが群がっていることでしょう。

   提供:平本春男さん(寺山町)



昭和10年、閑散としていた中山駅ホーム

提供:斉藤佐喜男さん(台村町)



   昭和10年、駅裏は一面の田んぼです

 当時の駅裏(現在の北口)は改札口は無く、改札口は南口だけでした。
  提供:斉藤佐喜男さん(台村町)


昭和9年、急峻な崖の上で道路改修工事中、三保の人たち


提供:土志田武彦さん(三保町)



昭和10年道路改修記念碑建立

 この碑は三保町の新道、現バス停榎下城址裏に。

  提供:土志田武彦さん(三保町)








    昭和10年5月2日、工場2棟の大きな建前  提供:平本春男さん(寺山町)

 
真田紐(さなだひも)のメーカー、安田工場(2棟)の上棟式の光景です。左右の2棟にやぐらを組み、その上に大きな樽と餅が入った俵が並んでいます。地上には“投げ餅”を待つたくさんの老若男女の姿

 昭和10年当時の社会

 
昭和10年と前年の9年は関西地方に大暴風雨が大被害をもたらした室戸台風、東北地方の冷害・大凶作、養蚕が盛んな関東甲信越地方で繭価安値暴落……度重なる打撃による経済危機の時代でした。救済すべき欠食児童が22万8000人に達していました。
 
その頃、真田紐のメーカー、安田工場はアメリカ輸出で業績を伸ばし急成長していました。この工場の建築を請負った平本材木店への代金も当時としては破格の高額、1万円をボンと即金で支払ったのでした。
 
 
1万円の重い札束とタクシー

 
市電が銭、カレーライス30銭の時代、1万円という金額はその札束を風呂敷に包むとズシリと重い。
 現金の持ち歩きは危険だからと、平本さんは横浜からタクシーに乗ることにしました。運転手に「中山までお願いします」と行き先を告げるとその運転手、「中山なんて所は聞いたことがない。知らないよ。悪路は行かないんだ。川和までならいいよ」。
 平本さんは川和で降ろされ、重い風呂敷包みを背負って中山まで歩いて帰りました。
 当時の1万円は、今の1億円以上の重みと価値があったのでしょう。

  

   
昭和12年の日中戦争、さらに昭和16年、太平洋戦争へ


昭和16年、中山町の相原五郎さんが出征

提供:相原征雄さん(中山町)


昭和18年台村町に国防婦人会発足

出征留守家族の世話、出征兵士の見送り、戦地への慰安袋の発送などに奉仕活動しました。
  提供:土井重治さん(台村町)


 昭和18年、台村町の山林から木を切り出し、住民が薪作り

 これは陸軍の命令、地元住民は強制的に勤労奉仕に駆り出されました。これらの燃料はすべて国に供出、自家用にすることは許されません。これほど、国は燃料不足に窮していたのです。

  提供:土井重治さん(台村町)


 薪の一部はその場で“木炭作り”

 兵士の監督のもと、地元住民が炭焼き。炭は俵につめて詰めて供出します。

  提供:土井重治さん(台村町)








昭和18年、台村町で行なわれた陸軍兵士の防火演習の時

台村町の住民と兵士たち。

提供:土井重治さん(台村町)


昭和19年、日大四中生が勤労奉仕

三保町の土志田家に3人の日大四中(現日大四高)が農作業の勤労奉仕に見えました。
 写真提供の土志田武彦さんは2列目、小学校5年生で胸に名札をつけています。
  提供:土志田武彦さん(三保町)

中山駅上空で映画もどきの日米、空中戦


日本空軍の零戦








米機グラマンF6F 「ヘルキャット」戦闘機

 太平洋戦争終盤に登場した主力艦上戦闘機。「ヘルキャット」を直訳すると「地獄の猫」


  昭和20年3月のこと

 
日本軍の戦況が日増しに不利になってきた昭和20年、米軍機がわが国の上空を平然と飛来するように。その年3月のある日のこと。
 2機の米機グラマンF6
F(写真右上)と日本空軍機の零戦機(写真左上)とが激しい空中戦を展開していました。しかもそれが中山駅の真上の上空で‥…・。まさに戦争映画そのものの場面です。それを多くの中山の人たちが目撃したのです。
 当時少年だった青葉区市ヶ尾の村田知義さん(71歳)にはその模様が鮮烈な記憶として残っています。

 流れ弾が当たるぞ〜!

 「双方2機ずつが中山駅の真上で激しくパンパン撃ち合っていました。流れ弾に当たるぞ! 逃げろ!」大人が大声で叫ぶので、私は日本通運の事務所に隠れました。怖いもの見たさに身をかがめ、窓からその戦闘を固唾を飲んで見て
  

いました。と、グラマン1機が突然、墜落し始める!
 まさか駅に落ちるのではないかと心配しましたが、現在の鴨居駅裏の鶴見川河川敷に落ち、炎上しました。



  
落下傘で降りた米兵

 
その直後、米兵が乗った落下傘がヒラヒラと川岸に降りました……。たちまち米兵は大勢の住民に取り囲まれ、やがて到着した警官に捕らえられ、目隠しされ、川和警察署へ連行されたのです。
 あの米兵、まだ二十歳前の若い青年でした。その後も無事なら、まだ80歳にもなっていないでしょう」
  村田さんは今もあの青年の安否が気になり、時々その姿が夢枕に立つそうです。

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校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.14  昭和元年〜終戦の中山地区