校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.11  石井家の写真が地域の歴史を語る

      
大正時代、住民の地域活動

                    提供:石井憲保さん(十日市場町)


   大正2年、青年団「十日市場同志会」

 十日市場同志会は明治2615日付けで「若衆日待講」を改称して発足しました。後輩への村の伝統・しきたりなどの指導、軍隊への入営者の旗の寄贈・送迎、村の消防活動がその目的です。
 明治末期から各村の同志会が青年会に組織変更し活動内容を充実させ、大正期には青年団に改称して組織力強化のため郡単位の連合体へと変わっていきます。



大正9年10月1日、第1回国勢調査時の新治村調査員

 大正10年の第1回国勢調査では新治村の戸数と人口は、767戸で4486でした。











  



          大正15年7月、コンクリート製北門堰が完成、竣工式

 水田を潤す水は農民には命の水。今までの土嚢を積み上げた堰は増水のたびに壊れ、稲田が冠水や水不足、収穫が激減していました。堅牢なコンクリート堰は農民の悲願でした。しかも北門堰は十日市場・榎下・小山・台・寺山・中山の広範囲の農家が利用する重要な堰です。



昭和初期から戦時中の活動



昭和4年新治村女子青年団の“団服”新調記念

 女子青年団は未婚の女子で構成され、「処女会」とも呼ばれました。良妻賢母となための家事・作法・生花・料理・手芸裁縫などの講習会を企画・主催し、その習得が団の目的です。











昭和7年十日市場・伊勢参拝団が宿泊先の伊勢で

 日本人なら一生に一度は必ず“お伊勢参り”をしなかえればならない。そうした社会通念が浸透していたのはいつの時代からでしょうか。
 つい最近までどこの家でも神棚に「天照
神」というお札をあげ、毎朝榊と水を供えて手を合わせたもの。その祭神が祀られた伊勢の皇大神宮を参拝することは遠距離の旅、費用もかかる一生一大のこと。
 そこで地域ごとに伊勢講という組織をつくり、みんなで少しずつお金を積み立て一定金額が貯まると交代で伊勢参りをしたものです。



住民の手で1年をかけた2キロの道路拡幅工事

 十日市場の村道は人馬が通る昔ながらの狭く、曲がりくねっていました。それを村人は昭和7430日から翌年の331日まで1年をかけ、十日市場地内2キロを農村振興道路として幅51メートルに広げました。
 写真は当時の工事現場。現山下・長津田線の宝袋寺入口付近。左手の電柱の後方が横浜線の線路、右方向は坂口屋です。





   昭和8年5月、十日市場本道開通式当日

 写真左の村道がついに完成、記念すべき喜びの日を迎えました。高台のこの場所に記念碑も建て、当日は除幕式も行なわれました。
 この場所は十日市場字中里。高台のここからは「多摩川・丸子の花火がよく見えました。真夏の花火大会の夜は近所の人たちがムシロの上に集まって歓声をあげたものですよ」と話すのは田中満之進さん。



昭和10年、十日市場の加藤圭一さん宅で馬力脱穀の試運転
                           提供:加藤圭一さん(十日市場町)

            脱穀の進歩

 昭和時代の脱穀の進歩は急速でした。米の場合、右の写真のようなカナゴキでコイて実を穂からはずしていました。その後、足踏み脱穀機が普及。しかし畑で採れる豆類などは、クルリ棒を使って穂を叩いて実をはずしていました。
 そうした人力による重労働と低能率を解消するため、上の写真のように馬力を使っての脱穀を試したようです。
 現在の農家はみな電動脱穀機ですが、戦後二十年代に普及したガソリン発動機による脱穀機は農作業の生産性を急速に進歩させた画期的な農業機械でした。



昭和52年、カナコギを使っての脱穀

提供:北村 昭さん(都筑区茅ヶ崎町)
















昭和11年12月、地域指導者・石井米次郎さんの葬儀





 
石井米次郎さんが遺したもの

  石井米次郎さんの訃報は横浜貿易新報(現神奈川新聞)に取り上げられ、見出しに「都筑繭の総元締 石井乾繭組合長逝く 郡を挙げて哀惜」と報じました。
 米次郎さんは石井惣右衛門(当主・石井一郎さん)の次男で養嫡子。照明に行灯やランプを利用していた当時、米次郎んが中心になって村人に電灯の必要性を説き、十日市場などの地域への電灯の普及、横浜線中山〜淵野辺間各駅への電灯設置に尽力。みずからは大正9年、長津田に石井精米所を建て電動と機械化の威力を人々に示しました。
 また同時に養蚕の振興に大きく責献した人でもあり、所有する森林を桑畑に開墾し養蚕業として繭を大量生産し業績をあげました。養蚕農家の繭出荷の利便と繭価安定をはかるため長津田に株式会社長津田繭糸取引所(当サイト緑区編NO.1掲載)を設立し社長に就任、その後、都筑郡乾繭販売利用組合に組織変更、組合長として養蚕農家の育成と支援に努めました。県蚕業調査会委員・大日本蚕糸会神奈川支会商議員をも兼務、多忙な日々でした。
 新治村の役職などを歴任し村道の改修、コンクリート製北堰、耕地整理など地域の発展に数々の功績を遺して逝ったのでした。



   昭和12年3月、旭尋常小学校卒業生

  子供たちの中で高等科に進む者は中山にある中山高等尋常小学校に2年間通学しました。
 児童の後ろに写る校舎は、大正12年に住民が山から木を切り出して住民の手で作った真心のこもった建物です。昭和14年の横浜市編入で校名を「新治尋常小学校」と改称しました。





     昭和14年、同窓会で3人の入営祝賀会

 旭尋常小学校の学区、十日市場・新治・三保の同窓生らは「旭友会」という会を作り、親しく交流していました。昭和1414日、この日は同窓生3人が兵隊検査で甲種合格、入営祝賀会が同校で開かれました。
 当日の主役はお揃いの国民服で椅子席に座る3人。新治村ではこの3人にお揃いの国民服を村費で作って入営祝いとしました。



昭和20年6月25日、天皇献上米の“清祓式

 田植えの前に県知事はじめ市や郡の役人ら関係者80名が列席し谷本保宮司のもと、清祓式が行なわれました。

   新嘗祭(にいなめさい)と天皇献上米

 
新嘗祭は旧祝祭日で現在の“勤労感謝の日”に当たる1123日。この日は天皇陛下がその年に収穫した穀物を食する祭事が行われ、全国の家庭国旗を揚げてこれを祝います。
 日本が無条件降伏した昭和20年、石井源三郎ん宅は横浜市長に推挙され、新嘗祭用の稲を耕作することに。それは51日の苗代づくりから
蒔き、田植え、除草、施肥、稲刈り、脱穀、精米でどの作業にも息の抜けない半年でした。



 昭和20年10月2日、稲刈りの5日前、“抜穂式”

県知事をはじめ関係者100名が集まり、谷本保宮司のもとで“抜穂式”













    
戦後から昭和54年の駅開設まで



    昭和26年、横浜市議会議員の選挙

 オート三輪で地元立候補者の応援をする十日市場の皆さん。
   提供:加藤圭一さん(十日市場町)


   昭和28年8月、十日市場町巡査駐在所

 昭和26年に設置された十日市場駐在所が十日市場町1102番地(旧番地)に新築移転し、上記のとおり改称しました。現在は新築移転し「十日市場駅前派出所」と、また改称しました。








          昭和30年、稚児行列

 十日市場町内の子の神神社、神明社、八幡神社の3社を日向山神社に合祀したときのお祭り。稚児行列を先頭に行列が町内を進みます。
   提供:加藤圭一さん(十日
市場町)




     昭和54年4月1日、駅開設祝賀演芸会

 祝賀会場の隣に演芸会仮設舞台が設けられ、住民の皆さんが歌、舞踊、詩吟、三味線、お嘲子などご自慢の十八番を披露して完成を祝いました。
 舞台脇の出演者通路には出番を待つ人たちが長蛇の列でしたが、この人たち、全員出演できたのかしら?
  提供:千原康夫さん(神奈川区神大寺)

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