
昭和十年代、中山大橋手前の水田の暗渠排水工事
現代なら配水管は塩ビ管ですが、当時は竹の節をくり抜いたものを使い、パイブに水をしみ込ませるために上下に竹の枝を敷き詰め、それを地下に埋める作業。資材も手作り、掘削も埋設もすべて人力という重労働でした。
提供:宮田一郎さん(小山町)
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写真左と同方向を望む現在
2013.10.6 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和35年、通学路、北八朔の小道
青砥町の子供たちは、この道を通って山下小学校へ行きました。
提供:野村ナミ子さん(北八朔町)
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むかしの中里村
村名「中里村」は、明治22年から昭和14年に横浜市港北区の一部になるまで続いていました。
13大字(現町名)で構成
中里村には下谷本・上谷本・成合・鴨志田・寺家・鉄・黒須田・大場・市ヶ尾・西八朔・北八朔・小山・青砥の13の大字、それに現川崎市の下麻生村の飛び地がありました。
村役場は現青葉区下谷本町にあり、明治37年市ヶ尾に中里村信用組合、大正5年鉄町に中里信用販売組合をつくり、住民の生活向上や農業の振興に努めていました。
西八朔の一部が青葉区に編入
昭和14年横浜市に編入し港北区の一部になった後、昭和44年港北区から分区し「横浜市緑区」になりました。
さらに人口の急増で平成5年、西八朔地区の一部が「青葉区さつきが丘」と「青葉区梅が丘」になりました。 |

昭和35年、青砥の坂
手前は現在のバス停「谷津田原住宅前」です。
提供:野村ナミ子さん(北八朔町)
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写真左の現青砥坂
2013.10.6 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和55年、小山町の稲の掛け干し
正面の森は落合勇助家と落合康夫家。左方向が観護寺。
提供:千原康夫さん(神奈川区神大寺)
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写真左の現在
草が高く茂り、写真左の長閑な田園風景がウソのようです。左手の稜線に観護寺の青銅色の屋根がわずかに見えるだけでした。
2013.10.6 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和61年、旧山下小学校の校舎
今の校舎は北八朔町1865番地ですが、この校舎は同町1769番地。横浜市内で最後まで残った木造校舎でした。
提供:千原康夫さん(神奈川区神大寺)
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写真左の旧校舎の跡
旧校舎は取り壊され、図書室や地域資料室などがある山下地域交流センターに生まれ変わりました。階段だけは旧校舎のものを使い、面影を留めるよう配慮したようです。
2013.10.6 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和45年1月、木橋の小山橋の上の子供たち
周囲は一面の田畑、さえぎる物も無く遠くまで見渡せました。
提供:落合康夫さん(小山町)
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恩田川に架かる写真左の現小山橋
2013.10.6 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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平成2年、まだ見られた火の見やぐら
提供:宮田一郎さん(小山町)
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写真左の現在地
もちろん火の見やぐらはありませんが、消防団の消防小屋(右手)はシャッター付きの立派な建物に変わっています。
2013.10.6 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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