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校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

NO.1
長津田の大正時代の風景

MAP:長津田駅地区

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昭和17年、今から71年前、御前田の眺望

★下の写真は上の写真の右につながる上下1枚のパノラマ

提供:小池一夫さん(長津田町)

昭和43年、長津田地区(空撮)


                          提供:秋元 孝さん(長津田5丁目)


 手前の長津田丘陵地は水田を挟んで青葉区恩田町・田奈町の丘陵地と向かい合い、両地区を246号線(厚木街道)と田園都市線がつなげています。さらにJR横浜線と恩田川が交差しながら長津田の街の一部を囲んでいる様子が、野球場のグラウンドのような形に見えます。

大正10年、陸軍特別大演習で村中、大騒ぎ


兵士10万人が4日間展開する演習

 大正1011月、当時の日本陸軍は武相の地(東京・神奈川・埼玉の一部)を仮の戦場として陸軍特別大演習を行いました。演習は4日間行われ、参加した兵士は約10万人。演習は東軍と西軍に分かれ、1121日早朝、多摩川の二子の渡し(246号線の二子橋付近)で両軍が対峙する形で終わったのです。
 この演習には当時皇太子であられた昭和天皇陛下がご臨席。この演習を一目見ようと関東一円から数十万の人が見学に訪れ、空前の賑わい、日頃静かな村は村史上初の大事業が舞い込み、大騒動になったのです。
 
巨大なスタンドのような地形

この演習で最も重要な拠点となったのは田奈村(現長津田・恩田・奈良地区)でした。恩田川沿いに平地が広がり、あたかも巨大なスタンドのように見下ろせる丘が南北に連なり、演習を見るには絶好の地形(上の写真をご覧ください)。
 皇太子(昭和天皇)は長津田にご来臨され、その南側の丘陵地、神明山(現長津田地区センター付近)で大演習を統監されました。それを記念して長津田小学校の近くに松の木が植えられました。

翌年この地に都筑郡によって記念碑が建てられ「お野立ち所記念碑」として現存。その時、皇太子は井上征さん宅の本家、井上勝昭さん宅にご宿泊、側近の人たちは井上征さん宅に宿泊したのでした。

 3日間不眠不休の受け入れ態勢

田奈村に皇太子のご来臨、10万の兵士と数十万の見物人、村人はその準備と当日の対応にてんやわんや、村始まって以来の経験をしたのでした。
 その模様を同村恩田出身の元参議院議員・鈴木憲一さん(当サイト「田奈村編」に登場。鈴木交さんの父)
は、著書『村の研究』の中でこう書いています。
 「大演習のさいの見物人数は、おそらく空前絶後ならん。堀之内(恩田町)の丘は、突然の人の山をきづき、地の目わかたず。県下各中学校生徒はもちろん、その他一般参観人は、遠く30里(120キロ)よりきたる。村内一般に水質検査はもちろん、何一つ残すことなく調査し、準備万端行き届きたるも、また空前のこと。各青年団、消防団、軍人会、女子青年会、愛国婦人会の活動もまた目覚しいものにて、3日間にわたりほとんど不眠不休の状態なり」と記されています。



 御野立所(おのだちどころ)石碑

昭和天皇が皇太子時代、大演習を統監された場所に建立した記念碑

 撮影:岩田忠利







  
昭和天皇が大演習を統監した御野立所



大正12年、昭和天皇の御野立所。手前の松はその記念樹

長津田の丘陵地は一面の桑畑。左手後方が恩田の丘。

提供:河原一昭さん(長津田5丁目)


写真左と同方向の平成10年時

後方の高層ビルは田奈方面。

提供:河原一昭さん(長津田5丁目)









長津田繭糸取引所の落成



  大正13年6月、長津田駅前に長津田繭糸取引所、完成

 株式会社長津田繭糸取引所(十日市場の石井米次郎憲保社長)の建物が落成。この日は、祝賀会と初セリの日です。
  提供:石井憲保さん(十日市場)


繭糸取引所跡、平成10年時

提供:河原一昭さん(長津田5丁目)