校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集:岩田忠利

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NO.2 空襲、敗戦、復興、激動期の自由が丘
          
               戦時中の自由が丘


昭和17年、駅前中央会の防空演習に参加した皆さん

左側が昭和通り、右側が駅舎、後はおかめ寿司。
提供:加賀見寅夫さん(奥沢7丁目)




        昭和18年、戦死者の告別式

 戦死者は自由が丘デパートの宮野精肉店の子息。祭壇に敬礼する人は在郷軍人会自由が丘第6分会班長の加賀見寅夫さん。
 戦争が激しくなるにつれ、自由が丘から出征した若者の葬儀の光景が毎日のように見られました。
 提供:加賀見寅夫さん(奥沢7丁目)

   焼け跡から立ち上がった自由が丘の人たち


     昭和20年4月、現ひのき通りの焼け跡

 東京は昭和19年11月19日以降106回の空襲を受けましたが、自由が丘の街は昭和20年3月10日と4月13日と2度の空襲に遭い、大きな被害をこうむり、焼け野原となりました。
 写真は現ひのき通りの東洋信託銀行前の焼け跡の残骸。
 提供:自由が丘住区住民会議


昭和21年、敗戦と焼け跡から立ちあがった駅前ヤミ市

 路上にムシロを敷き、商品を並べた露店。家族の明日の生活資金「これで足りるかな?」売り上げを数える姿が痛ましい。
  提供:目黒区発行「あの日この顔」



    昭和21年、駅前の銀座通りのヤミ市

 お客さんの顔に笑顔が見え、平和の喜びが感じられます。
 提供:目黒区発行「あの日この顔」



昭和21年、写真左の銀座会と自由が丘デパート街並み

 左側手前が一誠堂、榊原商店、希望堂食品店、アラヰ靴店。右側は自由が丘デパートの荒物・雑貨の五十嵐商店。
 提供:岩田忠利(「とうよこ沿線」編集室)


昭和21年、銀座通り入り口の一誠堂

提供:岩田忠利(「とうよこ沿線」編集室)


写真左の一誠堂の現在
2013.4.22撮影:岩田忠利


昭和21年、駅前の銀座会、薬局・理容店など

提供:岩田忠利(「とうよこ沿線」編集室)


写真左と同方向の店
2013.4.22撮影:岩田忠利


         昭和22年(1947)夏、終戦後の南口風景

 二階建ての東急保線区事務所(のち、東急ストア。現フレル自由が丘)の手前に大井町線上り電車が見えます。
 ドアーはガラスが無く、板張り。戸袋の窓も板張り。それでも電車は、生活することに精いっぱいだった乗客を乗せて、駅前の野菜畑の中をひたすら走ります。
 当時中学生だった藤田幸一さんは東横線自由が丘駅渋谷寄りホームで奥沢方面に向けてシャッターを切りました。
 畑の中の道は、駅から吉野家の方向に延びる美観街の道です。写真真ん中の踏切が、現在の吉野家脇、緑が丘5号踏切となります
 撮影:藤田幸一さん(練馬区南大泉)

              復興の端緒は自由が丘駅前から


昭和25年4月、駅前広場の工事。いよいよ復興の槌音が響きわたる

左手のビルは帝国銀行(のち、三井銀行と改称)、右手に南風座が見えます。

提供:加賀見寅夫さん(奥沢7丁目)


写真左と同方向の駅前広場
2013.4.22撮影:岩田忠利







      昭和26年冬、飲食店街「楽天地」

 このネオンアーチは、当時駅前の三井銀行と不二屋書店との間に建っていました。この通りには大衆酒場・キャバレー・ソバ店・小料理屋などが並び、会社帰りのサラリーマンが焼酎1杯40円、酒1本50円でその日の疲れを癒す裏道でした。
 撮影:石井 力さん(川崎市宮前区鷺沼)


写真左と同位置の旧楽天地

現在の通り名は「しらかば通り」。2013.4.22撮影:岩田忠利


             昭和27年10月、自由が丘駅北口駅前

 当時の自由が丘駅ホームは草が一面に生えた土手の上にあり、のどかな近郊の駅といった感じでした。中央の車は、都と区の教育委員選挙の宣伝車。立看板は当時人気のあった映画館「南風座」のもので、二本立映画が「50円均一」だったことを示しています。
 提供:目黒区役所広報課
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