結婚の慣習箕輪雅江さん(高田町)の場合


昭和34年、箕輪雅江さん(23歳)が姉の三溝久枝さんと「告(つ)ぎ目に歩く」とき。
       
        数々のしきたり


 仲人さんは正式には嫁側の仲人と婿側の仲人の“二組仲人”です。何かトラブルが起きた時、解決しやすいという配慮からのようです。
 結婚式当日の花嫁は、まず実家で「家を立つ」の意味で、「立ちぶる舞い」。いわゆる「お別れ会」を行います。親戚や隣近所の人たちが並ぶ席に花嫁、その両親、婿側の仲人、花婿の本家当主が招かれます。
 これが終わると、花嫁の両親や兄弟、実家の本家当主ら5人〜7人(人数限定)が花嫁を嫁ぎ先まで送って来ます。こんどは嫁ぎ先で、延々深夜まで賑やかな「祝言」が開かれます。
 三々九度の盃を交わす結婚式後、祝言の宴たけなわのころ、花嫁は中座して嫁ぎ先の本家の奥方と一緒に「告ぎ目に歩く」という習慣が高田町にはありました。まず鎮守様の高田天満宮にお参り、次に先祖が葬られている菩提寺の塩谷寺。その道は急坂に笹が生い茂り、石ころだらけの山道で花嫁衣装の裾をたぐりあげて歩きます。
 それが済むと隣近所12軒への挨拶回りにと続きます。
 そして結婚初夜の翌朝、近所の奥様方が宴会の「後片付け」に集まります。雅江さんは実家の母からよくこう諭されていました。「早起きしてご近所の方が見える前に一人で後片付けをして、お茶を出すだけにしておくのですよ。皆様には丁寧にご挨拶しなさい」。まだ朝も暗いうちに起き、母の言うとおりに実行しました。

 当時の結婚式は、花嫁にとって心身ともに疲れ果てる、人生で最も長い長い一日でした。



昭和34年、高田町・箕輪富男さん(24歳)と雅江さん(23歳)の結婚式出席者
 提供:箕輪雅江さん(高田町)






   樽町・木村キクさんの嫁入り道具
                  提供:鈴木実さん(樽町)

 昔は嫁入り道具を写真のように座敷に飾って披露しました。タンスの数々、布団2組、鏡台、チャブ台、衣装掛け、長持ち、時計からタライや洗濯板などまで。

          
あの頃の乗り物




大正15年、タクシーがなかった当時の重要な“脚”、人力車。乗客は米山フミさん(写真家・米山富蔵夫人)
 提供:米山裕司さん(新羽町)





昭和10年、綱島東口の氷問屋、池田屋のオート三輪。運転するのは3代目、小泉久一さん。
  提供:池田乳業梶i綱島東)


昭和24年(1949)東横線の進駐軍車両(白線の入った車両)
 提供:田辺雅文さん(下田)

進駐軍車両の席は豪華でガラ空き。邦人車両は板張りですし詰め


 昭和219月からGHQの命令で、1車両を3分の1に仕切って白線部分が進駐軍専用、残りが一般客と決められていました。この定期電車のダイヤは渋谷〜桜木町間を昭和272月まで上下34本運行。 撮影者・田辺雅文さんは若いころ各路線の電車を撮り歩くほどの鉄道マニア。左の写真も代官山駅ホームで撮影したものです。当時の思い出を田辺さんはこう話されました。
 
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 進駐軍車両の電車は日本人乗客の席が板張り、進駐軍のがビロードのクッション付きの豪華なもの。しかも日本人の車両はいつもスシ詰めでしたが、彼らの席はガラ空きで、中にはいかがわしい日本人女性を連れた米兵もいました。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 電車好きの子供たちは先頭車両の運転席の横に立ち、ガラス越しに運転操作を見たり。外の風景を眺めたりするのが楽しみでした。なのに、そこはいつも進駐軍車両でアメリカ兵に占領されていました。
 この露骨な差別は幼心にどう見ても理不尽としか映らなかったのでした。



昭和32年、野菜出荷用に中古で6万円で購入したダイハツ3輪車(1トン)。左端、田口七郎さん。
 提供:田口七郎さん(綱島台町)











 



昭和34年夏、新吉田町の吉田米店で配達用に購入しオート三輪「ホープスター」
その後発売されたダイハツの「ミゼット」はエンジン快調で大ヒット。ホープスターはすぐオーバーヒートし箱根の坂を登れなかった、と持ち主・笈川寿次さん(新吉田町)








国産乗用車が爆発的に売れ出したころ、昭和36年のトヨタ車
 提供:小川昇さん(綱島上町)

 手前が空冷のフォルクスワーゲン(ドイツ製)に対抗してトヨタが売り出した空冷の大衆車パプリカ、若い頃の小川昇さんの後ろがトヨペット・クラウン、続いてトヨタのコロナ。他社では日産ブルーバード、富士重工スバル360などがよく売れた当時。










     沿線でSLが見られた昭和39年。菊名駅近くの横浜線踏切
       撮影:本田芳治さん(篠原北)
 
 菊名駅から新横浜に向かって横浜線最初の踏切(表谷戸踏切)で。SLが貨物列車を牽引し白煙を吐きながら踏切にさしかかる。駅員さんがボイントを手動で切り換えているところです。こんな光景も昭和4410月が最後でした。
 右方向、菊名駅。左方向、新横浜駅。背景は篠原北2丁目住宅地。
    
         
いたいけな子どもたち



昭和15年、鶴見川で遊ぶ新羽の子供たち
提供:小山建次さん(新羽町)








昭和15年、鶴見川・現新羽橋付近の川原で相撲に興じる新羽の子ども
提供:小山建次さん(新羽町)



昭和25年、後方は一面田んぼの旧綱島街道端、菊名5丁目・現斎藤医院前に集まった子供たち。
 提供:斎藤忠徳さん(菊名)






大水も子供にとっては“即席プール”、大はしゃぎ! 昭和51911日、台風による新吉田町の道路冠水。    提供:小川 昇次さん(綱島上町)
      

 場所は青山グラウンド西方の住宅地。男の子は手前が弟の庄子征孝君と兄の庄子賢也君兄弟。

TOPに戻る

港北区編 終わり

校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 編集・文:岩田忠利

画像をクリックすると、拡大されます。拡大後は左上の戻るボタンをクリックしてください

NO.38
港北区の風俗編(結婚式・乗り物・子ども)