校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利

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           こんな楽しい時代もありました!


   昭和24年、強風の中、ご近所回りの花嫁

 場所は師岡町の現在なかよし幼稚園付近。左が仲人の横溝国枝さん(師岡町)、花嫁は林キンさん(師岡町)
 提供:横溝美子さん(師岡町)



   昭和27年、ベーゴマで遊ぶ男の子
 
 イガグリ頭の友だちが歓成院境内でベーゴマに興ずる。おい、後ろ向きの子、ズボンのお尻、ヤブけてるんじゃないの? 
 提供:摩尼和夫さん(歓成院住職)


櫓の上で太鼓をたたく秋本良夫さんと森幸甲一さん、下は柴田青年会会長


 昭和27年、太尾町青年会主催の盆踊り

 それ以来、歓成院境内で毎年25年間も続き、夏の風物詩になっていました。
 提供:摩尼和夫さん(歓成院住職)


昭和34年、子供会の世話人たち
提供:冨川百合子さん(大曽根台)


    昭和33年、子供会の山車

 台車は町会で購入、屋根は障子戸2枚を組んだものですが、子供は大喜び。左の女の子は大倉山動物病院長・茂木知子さんだそうです。
 
提供:佐々木滋さん(大曽根台)



昭和30年代の師岡町・鈴木 博家の周囲
提供:鈴木勲さん(師岡町)





     


       写真左の現在(2013.2.12)

 正面が鈴木博家。母屋の裏の崖は斜面を行かしたマンションに。
 撮影:岩田忠利



     
           船着場で栄えた太尾橋付近


   新羽橋完成まで重要な橋だった太尾橋

   写真は昭和30年代に新羽側から撮ったもの。
    
提供:山本喜代子さん(太尾町)

 陸路輸送がまだ発達していない昔、この橋の際に「太尾河岸」という船着き場があり、荷物を積んだ船は鶴見の河口から上げ潮に乗ってこの太尾橋まで上がってきました。船が着くと、地元民はリヤカーや荷車で荷物を受け取りに。その人たちや、道すがら写真に写る大きな椎の木の下で一休みする人たちも多く、当時ここには飲み屋まであるほどの大倉山で一番賑やかな所でした。

  鶴見川の流れはこの太尾橋の周辺で大きく蛇行しているため、大雨のたび土手が決壊し大倉山地区は大きな被害を受けました。そこで、地元では毎日70人ほどの住民が出動し鶴見川の流れを西寄りにやや直線に「流れを変える工事」に着手、昭和22年から5年を要し、昭和27年に完成させたのでした。
 昭和57年、太尾橋のすぐ近くの上流に3億円を投じた新羽橋が完成、太尾橋はその役割を終え、取り壊されました。




            太尾橋の付近

  沿線雑誌『とうよこ沿線』第45号「昔の町並み(昭和30年当時の太尾町)」イラストマップ22〜24ページ)、24ページの一部です。

  






           駅前で開業した美容院と青果店
   
昭和29年、西口駅前近くで開業、山本美容院

         
提供:山本喜代子さん(太尾町)
 

 山本由子さん(山本美容院初代)は終戦直後、横浜商業(Y校)の別科として美容科があり、そこで美容を学びました。戦前から温泉町として賑わっていた綱島(現綱島東1丁目)で昭和23年日本髪と洋髪のとちらも結う美容院を開きました。ところが6年ほどで家主がその場所をガソリンスタンドに改築するというので、大倉山に移って店(写真左の白い店)を構えたのでした。 
 綱島の隣駅、しかも駅前というのに店の前の道を通るのはリヤカーだけ。裏はハス池が点在する田んぼ。そこに白鷺がたくさん飛んでくる長閑な田園地帯でした。長女の喜代子さんが見習いとして母を手伝いはじめたのはその頃です。



昭和33年東口駅前通りで開店、八百芳  
                
提供: 中山芳男さん(太尾町)

   八百屋修業もせず、見よう見まねで青果店を始めた中山芳男さんでした。姉の家を借りて八百芳を開店したのは22歳のとき。東口は通りに面して歯が抜けたように店が並び、店の裏は畑や田んぼで夏の夜はカエルの大合唱。
 若い店主は新羽の農家の三男坊。最初から野菜の良し悪しは判別できましたが、困ったのは市場でのセリ。符丁がわからず、いつも先輩同業者に先に買われてホゾを噛んでいました。また、くだものの種類を知らなかったり、ご用聞きのとき勝手口と玄関を間違えたりと、開業時は泣き笑いの連続でした。年中無休、殆ど寝ずにがんばりました。「お客様に恵まれ、家族もみんな元気だったから、今日まで続けてこられました」と中山さんは結びました。





       昭和32年の大倉山梅林。

大倉山精神文化研究所をバックに、梅林全景の撮影。2人の人物は中村さんの義理のご両親。この写真は、毎年東急などの主催で行われていた写真コンクールの入選作。
  撮影: 中村稚晴さん(師岡町)






   昭和34年6月、「エンヤコラ」の工事現場

 大倉山のあちこちに住宅が建ち、その工事現場からユーモラスな歌声が流れてきます。
 「♪こんなもの重くて どう〜する 
  オカカは持てない エンヤコラ〜……」
 10人の“綱子”が全員の力を独特の節回しに合わせ綱を引く。重い分銅が持ち上がる。綱をゆるめると分銅が落ち、松の杭の頭を打つ。このエンヤコラの歌に合わせ杭は次々と地中深く打ち込まれ、住宅の土台作りは進んでいきます。
 今はこうした光景は巨大なクレーンに代わり、見られなくなりました。
 
提供:畑野昭一さん(太尾町)

  

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NO.22   昭和24年〜34年の大倉山 点描