
昭和11年9月、葬列が旧大綱橋を渡る
昭和11年当時これだけ車が連なるとは、相当大きな葬儀のようです。左後方は旧大綱橋で、現大綱橋の下流50メートルほどに架かっていた木橋でした。手前のトロッコは先代のコンクリート製大綱橋新築工事用に使ったもの。
提供:打越賢蔵さん(綱島西2丁目) |
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昭和23年春、綱島台での畑仕事
現在地はコンフォーレ南日吉の団地内にある南日吉保育園の所です。後方の丘は日吉台。写真は田口七郎さんの家族。田口家は桃栽培が主力でしたが、戦後桃の木を切り、野菜栽培に切り替えました。ここは耕地整理以前は600坪のレンコン畑だったそうです。
提供:田口七郎さん吉原清一さん(綱島台)
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昭和30年夏、米軍ヘリコプターが不時着
場所は綱島小学校の校庭。初めてヘリコプターなるものを間近にする人々が瞬く間に集まりました。
撮影:近藤 操さん(綱島西2丁目) |
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昭和31年1月、綱島台の“氷場”
現綱島郵便局の左側、森の中にありました。右の家は吉田達治さんの家
提供:小泉実さん(綱島台)

山裾にあった飯田助丸家の氷場 |
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昭和34年、樽町の枇杷畑下(びわはたした)の春 |
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手前の野菜はカブ。冬場ヨシズで覆って大事に育てた樽町のカブは、「覆いカブ」と呼び、市場で人気があり、知られていました。
瑞々しい葉のジュウタンが枇杷畑下の田んぼに広がり、その先に白鷺の群れが餌をついばんでいます。右手に鶴見駅発、綱島行きのバスが通ります。この光景に、温泉街の遊客もしばし見とれたものです。
提供:木村 弘さん(樽町1丁目) |
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写真上と同方向を望む平成元年
樽町の田園風景は、住宅・工場・倉庫・商店・道路で埋め尽くされました。右手に東海道新幹線が通過します。
撮影:岩田忠利
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昭和34年初夏、飯田助知家の長屋門前での田植え
提供:鈴木輝明さん(綱島台)
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写真左の同方向の現在
田んぼは盛り土をして駐車場と住宅に変わっています。左後方の建物は綱島郵便局。
撮影:岩田忠利 |
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昭和35年12月、綱島小学校で三橋美智也ショー
当日昼夜2回の「三橋美智也ショー」は大盛況。写真は三橋美智也さんに感謝状を贈る綱島小学校の竹沢満枝校長です。
撮影:近藤 操さん(綱島西2丁目)
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ミッチー(三橋美智也)の好意
当時人気絶頂にあった三橋美智也にとって綱島という土地は、忘れられない土地だったそうです。
北海道から青雲の志を抱いて上京し、綱島・東京園でボイラーマンをしながら時折、大広間の舞台でお客さん相手に舞台で歌ったりして歌の修業に励み、また社長のはからいで東京・中野の夜間高校にも通わせてもらいました。
その彼は、東京園の社長・中村忠右衛門さんが綱島小学校体育館建設資金集めに“1円玉募金”と銘打った活動に老骨に鞭打って奔走している話を耳にし、献身的な奉仕を買って出たのでした。借入金で建てた体育館での昼夜2回のショーは、前売券がすべて売り切れ……。
当時のPTA会長・飯田江助さん(綱島台)は、その思い出を私にこう話すのです。
「三橋さんの事務所に謝礼を持って訪ねたところ、『はい、どうも……』と快く受け取ったと思ったら『返済の一部にどうぞ!』と、そっくりそのまま返してよこすんです。あれほど多くの聴衆を動員させてもらった挙句に……。
あのときは、嬉しかったですねえ。お蔭でその35万円を借入金の返済にあて、返し終わっちゃいましたよ〜」
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三橋美智也の歌手人生
三橋美智也は昭和5年11月、函館市郊外で生まれ、本名は北沢美智也。小学校5年生、11歳のとき、すでに全北海道民謡大会で優勝し、12歳の昭和17年には民謡をレコードに吹き込んでいます。中学を卒業し就職のため上京しますが、まだ子供の美智也には歌手としての仕事はなく、転がり込んだのが綱島の東京園でのボイラーマンの仕事でした。ここには大広間に舞台がある。仕事の合間に歌えるかも……。
「東京園に稀に見る美声の青年がいる」がすぐに評判となり、それがキングレコードの耳に入り、歌謡界に。昭和30年「おんな船頭唄」で演歌デビュー。たちまち人気歌手の仲間入りをしてしまいます。その後、昭和30年代に「リンゴ村から」「哀愁列車」「母恋吹雪」「おさらば東京」「夕焼けとんび」「古城」「達者でナ」「星屑の町」などをはじめ18曲ものミリオンセラーを出し、日本歌謡界を代表する男性歌手の頂点に登りつめました。
性格は生真面目で知られ、自分のショーで歌詞を間違えると「もう一度、歌います!」と、やり直すほどだったそうです。
昭和58年には日本の歌手として史上初めてレコード枚数1億枚を突破する記録を打ち立てました。これは日本の歌手では未だに破られていません。
長年民謡で培った技を元に「民謡三橋流」を創設し家元。門下生に同じ北海道出身の歌手・細川たかしらがいます。
平成7年10月、ゴルフの帰りに車中で意識を失い、そのまま意識が戻らず翌平成8年、多臓器不全で死去。享年65歳でした。
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昭和25年当時のハマライトの池
ハマライトの池は戦時中、「横浜ベークライト」という会社が軍需工場用地として買収、池を掘った土で盛り土して工場を建てる予定でしたが、終戦で立ち消えになったまま、魚棲む池となった敗戦の傷痕でした。レジャーの少ない当時、休日は釣り客で賑わいました。
この池の跡地は現在「綱島東3丁目公園」になっています。
提供:池谷光朗さん(綱島東1丁目) |
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昭和35年、地元民が出動の排水路工事
現場は写真左のハマライト池の跡地。その排水路掘削中です。後方中央の建物は松下通信工業、右後方が慶應大学キャンパス。左に立っている人は、初代組合長・小泉正次さんです。
提供:池谷光朗さん(綱島東1丁目) |
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