NO.12 旅館70軒、芸者衆300人の綱島温泉町

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題字:新舟律子/ロゴデザイン:配野美矢子/校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利

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  駅名「綱島温泉町駅」で栄えていた頃


   昭和初期、「綱島温泉町駅」と呼んだ駅周辺

 現在の綱島公園付近からの町並み。後方の森は池谷光朗さんの屋敷。その左の建物は大衆浴場「綱島ラヂューム温泉」

 提供:吉原育雄さん(綱島台)

 


    昭和5年4月、「綱島ラヂューム温泉

 
「綱島ラヂューム温泉」は東横電鉄鰍フ子会社、綱島温泉電鉄鰍ェ乗客獲得のため昭和2年にオープンしました。一般客は入浴料20銭、ただし東横線往復乗車券お持ちの方は無料です。
 提供:「とうよこ沿線」編集室


 
   


    昭和10年代の「綱島温泉浴場」(名称変更)

 浴場前の綱島街道は開通したばかりでまだ砂利道、ほとんど車は通っていません。当時は日本第3位のラジュウム濃度の温泉で、色はコカコーラのように黒い鉱泉で、よく温まると評判。家族連れや友だち連れで賑わう。2度の火災に遭い、戦後経営者が代り、名称「東京園」となり今日に至っています。
 提供:打越賢蔵さん(綱島西2丁目)


  写真左の現在「東京園」

 相変わらず車の流れが絶えない綱島街道。 

   2013.1月 撮影:岩田忠利











   


 綱島で最も古い割烹旅館「桃仙閣」の昭和初期

 「綱島ラヂューム温泉」の敷地内にありました。
  提供:池谷光朗さん(綱島東1丁目)
  


昭和7年、相川旅館前に並んだ芸者衆
  提供:飯田正巳さん(綱島台)
 


   昭和9年、写真提供の打越さんの梅島館と離れ

 すぐ前が鶴見川土手、その先は河川敷の桃畑。後方の森は東照寺の裏山。のどかな温泉旅館の雰囲気です。
 
提供:打越賢蔵さん(綱島西2丁目)

 生き証人、打越賢蔵さんの話 
           占領下の旅館街

 昭和10年当時綱島には47軒の旅館が建っていました。戦争が激しくなった昭和18年8月、近藤神奈川県知事の命令で、旅館営業は一斉に廃止させられてしまいました。そして、各旅館は全国から召集された軍需工場で働く人たち、つまり挺身隊の寮になったんです。
 その後、終戦で私が昭和20年10月30日に復員してきたら、綱島の旅館は64軒ありました。しかし、どこも空き家になっていて、そこが、いま日韓で問題になっている慰安婦問題、それと同じ、アメリカ兵の慰安所として徴用されいましたねえ。変わり果てた旅館街の姿に言葉では表せないほど、本当にがっかりしました……。




 昭和27年ヘルスセンターの先駆け、「行楽園
 

 綱島の旅館の中でも大衆旅館「行楽園」は、ラジオで「百円天国」と銘打って宣伝し、連日大盛況でした。
 これに影響され大衆温泉として営業を始めたのが「亀戸天神温泉」、続いて3番目が大森の「平和島温泉」でした。今日の、いわゆるヘルスセンターの“先駆者”だったわけです。
 
 その場所は、現「ニックハイム第1」のあたり一帯の1300坪。梅島、水明、甲子園、ひさごの4館共同出資でした。大浴場、大食堂、屋上の子供天国、ビヤホールを備え、芸能人の音楽や演芸を終日楽しめて、1日大人100円でした。
 提供:打越賢蔵さん(綱島西2丁目)










       昭和12年、大綱橋の渡り初め、芸者衆150人

 土橋だった大綱橋がコンクリート製の橋に新築。芸妓組合旗を先頭に渡り初め。
 提供:打越賢蔵さん(綱島西2丁目)
  
 


昭和27年売れっ子芸者、小夏さん

 綱島の旅館が最盛期だった昭和27年当時、旅館70軒、芸者数300人といわれています。中でも「小夏さん」は如才なく、芸達者、売れっ子だったそうです。
 この写真は文房具店を営む近藤操さんの店によく現れる小夏さん、店の前で撮った1枚です

 提供:近藤 操さん(綱島西2丁目)