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昭和27年、武蔵小杉駅を南武線との連絡駅化工事
東横線が南武線の上をまたぐ工事で、左手の上りホームが右手の下りホームよりも一段高くなっています。
提供:青木作蔵さん(新丸子東)
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昭和27年、武蔵小杉駅の高架工事
東横線の武蔵小杉駅前の西口から東口へ抜けるガードができました。
提供:青木作蔵さん(新丸子東)

写真上の東横線ガード、現在
右は川崎市中小企業婦人会館、左が東京機械でしたが、どちらも解体し再開発中。
撮影:岩田忠利
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昭和29年8月、上丸子八幡町子供みこし新調記念
祭りの御酒所、桜井牛乳店で。 当時の世話人や子供たちの笑顔が勢揃い。大山仲八(大山組社長の兄)、桜井新吉(桜井牛乳店)、山本国義(マルヤ質店)、山本政次郎(山七商店)、森観三、佐藤秋雄(岩田屋)さんら健在だった頃の世話人の顔が懐かしい。
提供: 高橋忠雄さん(上丸子八幡町)
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昭和28年正月、消防団員扮する獅子舞
獅子は大谷商事の大谷金一さん。和田平作さんの祖母・和田サヨさんと母・フデさんが笑顔で迎えています。
この獅子舞は地元消防団が活動資金捻出のため松の内、地域を回りました。
提供:和田平作さん(今井仲町)
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昭和27年1月、歩射祭の〝的づくり〟
的作りはアシを開いて網代網にします。その担当は鎌倉時代からの世襲で、浅見・小金井・山本の3軒の家の当主が代々その任に当たります。後方で山本操宮司(現宮司の父)が見守っています。
提供:山本五郎さん(丸子山王日枝神社宮司)
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鎌倉時代から続く日枝神社の昭和35年1月歩射祭
流鏑馬の一種といわれ、二人の男の子が弓を引く行事。的に当たった位置でその年の農作の吉凶を占う神事。
的、弓矢づくりなど祭り前日の準備を担当する人は10名。その任に当たる家は、しきたりで決まっている代々の世襲です。その各家々は35代も続いています。
提供:山本五郎さん(丸子山王日枝神社宮司)
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昭和29年12月、新丸子駅の東西口を結ぶ新丸子陸橋
ホーム内の木製跨線橋は乗客しか使えず、住民の東西口への通行は遠回りして踏切を渡らなければならず不便でした。住民の要望がようやく叶って東口と西口を往来できるコンクリート製の跨線橋が完成しました。新丸子駅には乗客用と通行人用、2本の跨線橋が並んで架かるようになりました。
提供:小野基一さん(新丸子町) |
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昭和28年、市ノ坪の旧村道と小川
右手の小川は終戦時まで清流で、小魚やシジミがとれました。
提供:田口八十一さん(市ノ坪)

写真上と同じ場所の現在(2013.3.16)
撮影:岩田忠利 |
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昭和28年今井西町の日本電気家族寮から武蔵小杉駅方面を望む
一面に拡がる田畑の向こう右手に中原消防署の火の見櫓が見えます。
提供:伊藤文治さん(今井仲町) |
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写真左と同方向を今井中学校4階から望む現在
2013.3.19撮影:岩田忠利
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昭和34年8月、日枝神社の夏祭り。新丸子西口駅前で
提供:山本五郎さん(丸子山王日枝神社宮司)
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昭和42年、焼け跡から復興した新丸子西口医大通り
前記NO.11の掲載写真「戦災で焦土と化した医大通り」と同じ場所です。たくましく見事に復興した街並みの情景です。
ヨシズ張りの日よけ、ねんねこ姿で買い物する主婦、木箱の中のリンゴ1個12円……。
提供:小野基一さん(新丸子町) |
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昭和35年2月、武蔵小杉駅前ロータリー
提供:山田勇さん(田尻町)
後方の土手は東横線の線路。左手に3階建ての社宅が見えるほかは高いビルはありません。車は1台も無い、のどかな郊外の駅前風景です。
この半年後、「武蔵小杉」という駅名が全国に知れ渡る快挙がありました。駅から20分ほどにある地元の高校、法政二高が第42回夏の全国高校野球大会の甲子園球場で柴田 勲投手を擁して強豪静岡高校を3-0で破って初優勝!
選手たちが紫紺の優勝旗を先頭にして母校に凱旋しました。そして優勝の喜びに沸く地元で華やかなパレードが行なわれ、駅前は歓迎の市民で埋まりオモチャ箱をひっくり返したような騒ぎになりました。この模様が全国の茶の間に流れ、法政二高の地元、武蔵小杉の名は、一躍“全国区”となったのでした。

写真上のJR武蔵小杉駅前ロータリー、現在(2013.3.17)
撮影:岩田忠利
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