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昭和26年、教室から富士山を望めた住吉小学校
周囲は一面の田んぼ、西方に富士山が眺められます。白黒写真で識別しにくいですが、目を凝らしてみると、中央稜線上に白い富士山が見える木月伊勢町からの風景写真です。今は建物が密集し同方向の撮影は不可能。
提供:石井伊佐男さん(木月)
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昭和28年9月、住吉神社の祭り
手前右手が木月713の石井伊佐男さんの家、左の家が現在タバコやパンの店、金子商店。行列の後方が綱島街道の信号「稲荷橋入り口」。
提供:石井伊佐男さん(木月)
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昭和26年の綱島街道
石井商店のオ−トバイが走るのどかな綱島街道。後方は武蔵小杉方面。左2階建てが愛知館という学生寮。向かい側の現在のバス停周辺は桃畑で、寮の学生がよく畑の桃をもぎ取っては5銭硬貨を枝に吊るしておいたという。
提供:石井伊佐男さん(木月)
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写真左と同じ場所、稲荷橋の現在(2013.3.2)
撮影:岩田忠利
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昭和26年、井田の春
矢上川の昭和橋周辺の春。中央の道が現在の井田病院へのバス通り。右手の桜は昭和橋下の矢上川土手の桜並木。後方の遠望は世田谷方面。地平線は高層ビルがなく定規で引いたように水平です。
提供:石井伊佐男さん(木月)
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写真左の現在(2013.3.2)
住宅が建て込み、高所からの撮影ができず、視野が狭くなっています。はるか後方のビルは新宿の高層ビル群。
撮影:岩田忠利
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昭和26年、市境を流れる矢上川
右が横浜市港北区日吉2丁目、左が川崎市中原区木月。その先を東横線の電車が鉄橋を渡っています。
提供:石野英夫さん(井田中ノ町)
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写真左と同方向の現在(2013.3.2)
後方の橋は、どなたが名付けたのか、中原区と日吉をつなぐ「なか(中)よし(吉)橋」です。この橋と並行した鉄橋を東横線の電車が通っています。
撮影:岩田忠利
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昭和27年2月、現労災病院の地点から駅面を望む
はるかに広がる雪原を電車3450型が武蔵小杉駅に向かう。駅前に建物が見えるほかは一面の雪原です。
提供:徳植利夫さん(木月住吉町)
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昭和27年、渋川に桜を植樹して間もない頃
写真右手の3人が中心になって桜の苗木を植えました。写真右から末広湯・小室文次郎、住吉ドレメ・今井正吉、住吉神社宮司・吉田亀吉の皆さん。
健在な古老の話では「渋川ではアユがよく捕れた。四ツ網という網を張ると、一度に2升ほどのアユがごっそり捕れた」。それほど渋川は清流だったそうです。
提供:吉田盈一さん(木月。住吉神社宮司)
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昭和27年2月、踏切からの情景
手前が踏切ですと後方の建物は、旧東京航空計器(株)。左側の空地は現在の関東労災病院。右側の家は平河金太郎さん宅です。
提供:徳植利夫さん(木月住吉町)
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写真左と同方向の現在(2013.3.2)
道幅は2倍以上広くなっていますが、さらに拡げる工事が進んでいます。
撮影:岩田忠利
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昭和27年2月、戦争の爪跡(つめあと)
軍需工場の東京航空計器の建物は米軍のB29の空襲に遭い、焼失しましたが、工場の門柱だけが戦争の残酷さを物語るかのように残っています。
提供:徳植利夫さん(木月住吉町)
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写真左の門柱があった辺りの現在
「戦争はごめん、平和でありたい!」の願いからここは現在「中原平和公園」。
撮影:岩田忠利
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昭和29年、東口から西口を望む
左手は2階建ての駅舎。右手の小屋は踏切番のオジサンがいる建物です。
提供:徳植利夫さん(木月住吉町)
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写真左と同じ場所、59年後の現在(2013.3.2)
撮影:岩田忠利
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昭和29年4月、井田神社の裏通り
左の森は井田神社。道路左側は井田中ノ町、右側が井田杉山町になります。
提供:石野英夫さん(井田中ノ町)
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写真左と同方向の現在(2013.3.2)
情景は一変していますが、後方左手の井田神社の森の緑が昔の面影を留めています。
撮影:岩田忠利
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