戦時中、人々の営み
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昭和9年11月、羽沢地区の“農繁託児所”
猫の手も借りたいほど忙しい農家その農繁期に子供たちを預かる“農繁託児所”を羽沢町神明社で開きました。開所のときの子供たち、世話をする女性たち、役員らが集まって記念写真。
提供:平本康博さん(羽沢町)
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昭和15年7月菅田東部青年会が牛車でジャガイモの出荷
場所は菅田町猿渡。右から2番目が松下鉄五郎さん。後方は東前田の家並み。左中央の家は昭和20年の空襲で焼けた法田一好さん宅です。
提供:松下鉄五郎さん(菅田町)
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昭和11年菅田農事実行組合が安行から仕入れた植木
菅田町・小川橋に到着したトラック。
提供:伊藤啓一さん(伊藤写真・菅田町)
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昭和11年3月、同組合の植木セリ市
提供:伊藤啓一さん(伊藤写真・菅田町)
植木栽培が盛んな菅田・羽沢地区
谷戸が多い菅田・羽沢地区は昔から植木栽培が盛んでした。谷戸の丘地は日当たり、通風、水はけが良く、植木栽培に適しているうえに、宅化が進む東京・川崎・横浜の大都市に近いことも有利でした。
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昭和18年歌人岡本かの子の母の実家前、火の見櫓
鉄の火の見やぐらまで戦争に駆り出されることになりました。鉄を溶解して兵器製造のため強制的に供出させられたのです。写真左の板に「応召火之見櫓解体記念」と記さています。
右後方の大きな家は菅田東の鈴木登久治家で、歌人・岡本かの子の母、アイの生家です。神奈川県下屈指の旧家で素封家の2女に生まれたアイ。現川崎市高津区溝口の大貫家に嫁ぐ前、娘時代の彼女の性格は明るく、外国語を学ぶ情熱的で活発な面と常磐津をたしなみ、俳句を詠むなど文学的趣味をもつ女性だったという。
提供:松下鉄五郎さん(菅田町)
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昭和19年、兄弟二人が同時に出征、ともに戦死
菅田町・法田(のりた)久四即さんの家では−度に兄弟2人が出征。兄の武雄さんと弟の快三さんが応召され、ともに戦渦に消えてしまいました。
提供:関口 弘さん(六角橋)
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わが町、菅田の風景 |
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撮影:伊藤啓一さん(伊藤写真。菅田町) |
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昭和32年1月、菅田町長谷戸の畑で働く農耕馬
馬のくつわをとるのは、現相模屋金物店・店主の小川正雄さん。
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昭和42年1月の長谷戸。左稜線上に池上小学校校舎が見えます
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昭和32年(1957)4月、小川橋付近
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写真左と同じ場所、現在
2013.7.8 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和32年(1957)5月、完成直後の菅田市営住宅を望む
撮影場所は池上小学校付近。
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写真左の菅田市営住宅、現在
建物が建て込み、ズームでアップし撮影。
2013.7.8 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和42年(1967)1月、バスが走る台町下の風景
左後方は小川橋、中央の建物は横浜冷凍(現市営西台町住宅)。
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写真左と同じ場所、現在
右の建物は市営西台町住宅。
2013.7.8 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和45年(1970)7月、井出戸谷戸の風景
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写真左と同じ場所、現在
谷戸は埋め立てられ駐車場になっています。
2013.7.8 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和45年(1970)6月、西菅田団地の造成が始まる
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写真左から約4年半、昭和50年1月、西菅田団地完成
5階建て52棟、マンモス西菅田団地の完成です。手前は5街区の各棟、後方の正面は6街区各棟。
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昭和50年、羽沢町のどんど焼き
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平成10年1月、餅を焼く子供たち
提供・小泉福蔵さん(菅田町)
門松、松飾り、しめ縄などが燃えた後、餅を棒の先に 付けて“置き火”で焼いて食べると、一年間無病息災だという言い伝えがあります。
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