明治5年我が国初の鉄道開通以来、国鉄駅「神奈川駅」
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大正5年高島台からの眺望。手前は東海道の台町家並み。中央が国鉄神奈川駅
国鉄「神奈川駅」の右方向、次の駅は初代「横浜駅(のち桜木町駅)」で、まだ現在の3代目「横浜駅」は存在していません。後方は三菱倉庫、その先は海。
撮影:鈴木年長さん(青木町)
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昭和3年8月、廃駅反対の署名運動をする青木町・台町の住民
3代目横浜駅の完成が近づき、国鉄「神奈川駅」が廃止されるかも。住民は連日反対の署名活動に。
明治5年の鉄道開通以来続いた神奈川駅は、当時まだ東海道の宿場町としての繁栄の名残をとどめ、乗客は多かった。大正元年の乗客数は59万人、沿線各駅では初代横浜駅に次ぐ駅でした。利用客の地元住民は1万人の署名を集め猛反対したが、結局、3代目・横浜駅が完成し廃駅になってしまいました。
提供:神谷興蔵さん(鶴屋町)
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昭和63年、廃駅になった国鉄神奈川駅跡
後方に現在の横浜駅(3代目)の構内が見えます。
撮影:岩田忠利
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神奈川学園の前身、神奈川高等女学校
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提供:神奈川学園(沢渡) |
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大正時代、沢渡にあった神奈川高等女学校(現神奈川学園)の校舎
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写真左の神奈川学園、現在
手前の広場は沢渡中央公園。
2013.6.24 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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講堂で布団の綿入れ。被災地へ布団1万2千枚を
大正12年9月の関東大震災直後、同校は宮内庁医療部の本部となり、延べ37,000人が治療に同校を訪れました。
また同校は被災者に贈るフトン12,000枚の製作を引き受け、その布団作りに全校生徒が総出で当たり、2週間の授業をこれに費やし完成させました。
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昭和初期の海水浴
同校の三大行事の一つ、「夏の村」という臨海学校。このときは姉妹校の「精華小学校」の児童と一緒に海で遊びます。
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昭和初期、和服で運動会
神奈川高等女学校の制服は当時、和服と洋服があり、運動会は写真のように和服で行われました。
頭に大黒様の頭巾のようなものをかぶり、膝までのタッツケ袴をはき、膝から下は黒の長靴下、そして黒のズック靴。まさにこのスタイルは白虎隊か三河万歳のよう。さすがに生徒には不評だったようですが、先生方はこれで押し通しました。
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昭和38年11月、横浜駅西口・鶴屋町3丁目交差点
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「文明開化 横浜まつり」の行列が交差点を横断中です。高層ビルは、駅前にまだ数棟だけ。天空がひろーく感じられます。
提供:相鉄本社
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写真左の鶴屋町3丁目交差点、現在
2013.6.24 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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浜っ子・美空ひばりらが作詞家・石本美由起先生宅に
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昭和42年5月作詞家・石本美由起先生(ひばりの右)宅(松ヶ丘)の新築祝いに駆けつける
提供:石本美由起さん(松ヶ丘)
石本先生の右隣に古賀メロディーで有名な作曲家・古賀政男。その後ろに横向きの元日本作曲家協会会長歴任の服部良一。右端は美空ひばりの母・加藤喜美子。
石本先生は横浜駅西口からほど近い松ヶ丘の高台に住み、こだまする横浜港のドラ |
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の音をこよなく愛し、ひばりの持ち歌「悲しい酒」「港町十三番地」「哀愁波止場」「ひばりのマドロスさん」など数々のヒット曲を生み出しました。
日本作詞家協会理事長、日本音楽著作権協会理事長などを歴任。平成21年5月27日歿、享年85歳でした。 |
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