NO.18 大正〜昭和42年、横浜駅西口周辺
  
 
           
明治5年我が国初の鉄道開通以来、国鉄駅「神奈川駅」


大正5年高島台からの眺望。手前は東海道の台町家並み。中央が国鉄神奈川駅

 国鉄「神奈川駅」の右方向、次の駅は初代「横浜駅(のち桜木町駅)」で、まだ現在の3代目「横浜駅」は存在していません。後方は三菱倉庫、その先は海。
  撮影:鈴木年長さん(青木町)


  昭和3年8月、廃駅反対の署名運動をする青木町・台町の住民

 3代目横浜駅の完成が近づき、国鉄「神奈川駅」が廃止されるかも。住民は連日反対の署名活動に。
 明治5年の鉄道開通以来続いた神奈川駅は、当時まだ東海道の宿場町としての繁栄の名残をとどめ、乗客は多かった。大正元年の乗客数は59万人、沿線各駅では初代横浜駅に次ぐ駅でした。利用客の地元住民は1万人の署名を集め猛反対したが、結局、3代目・横浜駅が完成し廃駅になってしまいました。

  提供:神谷興蔵さん(鶴屋町


昭和63年、廃駅になった国鉄神奈川駅跡
 
 後方に現在の横浜駅(3代目)の構内が見えます。
 
撮影:岩田忠利









            
神奈川学園の前身、神奈川高等女学校
提供:神奈川学園(沢渡)


大正時代、沢渡にあった神奈川高等女学校(現神奈川学園)の校舎



写真左の神奈川学園、現在

手前の広場は沢渡中央公園。
2013.6.24 
撮影:石川佐智子さん(日吉)







 講堂で布団の綿入れ。被災地へ布団1万2千枚を

 大正12年9月の関東大震災直後、同校は宮内庁医療部の本部となり、延べ37,000人が治療に同校を訪れました。
 また同校は被災者に贈るフトン12,000枚の製作を引き受け、その布団作りに全校生徒が総出で当たり、2週間の授業をこれに費やし完成させました。


            昭和初期の海水浴

 同校の三大行事の一つ、「夏の村」という臨海学校。このときは姉妹校の「精華小学校」の児童と一緒に海で遊びます。



                  昭和初期、和服で運動会

 神奈川高等女学校の制服は当時、和服と洋服があり、運動会は写真のように和服で行われました。
 頭に大黒様の頭巾のようなものをかぶり、膝までのタッツケ袴をはき、膝から下は黒の長靴下、そして黒のズック靴。まさにこのスタイルは白虎隊か三河万歳のよう。さすがに生徒には不評だったようですが、先生方はこれで押し通しました。


             昭和38年11月、横浜駅西口・鶴屋町3丁目交差点


 「文明開化 横浜まつり」の行列が交差点を横断中です。高層ビルは、駅前にまだ数棟だけ。天空がひろーく感じられます。
 提供:相鉄本社


写真左の鶴屋町3丁目交差点、現在

2013.6.24 撮影:石川佐智子さん(日吉)



                
           浜っ子・美空ひばりらが作詞家・石本美由起先生宅に


昭和42年5月作詞家・石本美由起先生(ひばりの右)宅(松ヶ丘)の新築祝いに駆けつける

                             提供:石本美由起さん(松ヶ丘)

 
 石本先生の右隣に古賀メロディーで有名な作曲家・古賀政男。その後ろに横向きの元日本作曲家協会会長歴任の服部良一。右端は美空ひばりの母・加藤喜美子。
 
石本先生は横浜駅西口からほど近い松ヶ丘の高台に住み、こだまする横浜港のドラ
の音をこよなく愛し、ひばりの持ち歌「悲しい酒」「港町十三番地」「哀愁波止場」「ひばりのマドロスさん」など数々のヒット曲を生み出しました。
 日本作詞家協会理事長、日本音楽著作権協会理事長などを歴任。平成21年5月27日歿、享年85歳でした。

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校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

MAP:横浜駅周辺地区