ヨコシネ・ディアイエーの歩み
地元神奈川区で生まれ育ち、生涯をこの地で過ごした佐伯永輔は、日露戦争後の明治39年(1906)、12歳のときに父にせがんで外国製のカメラを買ってもらいました。この時の喜びと感動が忘れられず、生涯をカメラと映画の世界に身を投じるきっかけになりました。
彼は大正12年1月「横浜シネマ商会」を設立し、教育映画・文化映画の製作と映画フィルムの現像処理事業を始めたのが起こり。社長みずから樺太に渡って若いカメラマンと一緒にカメラを回して「熊の棲む千島のはてから」の製作や北洋を舞台にした「捕鯨船」、天皇御大葬の撮影は不敬で厳禁とされた時代に「大正天皇御大葬」を撮影した。終戦までに同社は300編以上の映画を製作し、数々の賞を受けました。
昭和20年5月の横浜大空襲で栗田谷の本社社屋など全棟を焼失しましたが、戦後、ニュース映画の製作で再スタート。テレビ無き時代、世界や日本のニュースをNHKのアナウンサーの吹き込みでニュース映画化し全国の映画館で上映、“竹脇節”などという名調子が声帯模写となりニュース映画が親しまれました。
昭和28年、NHKが日本初のテレビ放送を始めたのを契機に、続々民間テレビ局が開局。そのフィルムの現像需要に応えて社名「横浜シネマ現像所」とし業績は拡大の一途をたどります。
今やテレビ全盛時代、同社はより高品質の光と音を求めてレーザー光学録音の開発研究やビデオフィルムの業務にも進出、社名を平成5年に「ヨコシネ ディーアイエー」と変更、創業者・佐伯永輔の「頭を使え!」の遺志(昭和48年7月急逝)をニューメディア時代につなげて発展中です。
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