校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.17 創業者・佐伯永輔と横浜シネマ(ヨコシネ・D・I・A)

創業時は教育映画・文化映画製作。戦後はニュース映画、フィルム現像に
                          提供:ヨコシネ・ディーアイエー(栗田谷)


佐伯永輔がカメラを回していた若い頃





  
ヨコシネ・ディアイエーの歩み

 地元神奈川区で生まれ育ち、生涯をこの地で過ごした佐伯永輔は、日露戦争後の明治
39年(1906)、12歳のときに父にせがんで外国製のカメラを買ってもらいました。この時の喜びと感動が忘れられず、生涯をカメラと映画の世界に身を投じるきっかけになりました。

  彼は大正12年1月「横浜シネマ商会」を設立し、教育映画・文化映画の製作と映画フィルムの現像処理事業を始めたのが起こり。社長みずから樺太に渡って若いカメラマンと一緒にカメラを回して「熊の棲む千島のはてから」の製作や北洋を舞台にした「捕鯨船」、天皇御大葬の撮影は不敬で厳禁とされた時代に「大正天皇御大葬」を撮影した。終戦までに同社は300編以上の映画を製作し、数々の賞を受けました。

  昭和20年5月の横浜大空襲で栗田谷の本社社屋など全棟を焼失しましたが、戦後、ニュース映画の製作で再スタート。テレビ無き時代、世界や日本のニュースをNHKのアナウンサーの吹き込みでニュース映画化し全国の映画館で上映、“竹脇節”などという名調子が声帯模写となりニュース映画が親しまれました。

  昭和28年、NHKが日本初のテレビ放送を始めたのを契機に、続々民間テレビ局が開局。そのフィルムの現像需要に応えて社名「横浜シネマ現像所」とし業績は拡大の一途をたどります。

 今やテレビ全盛時代、同社はより高品質の光と音を求めてレーザー光学録音の開発研究やビデオフィルムの業務にも進出、社名を平成5年に「ヨコシネ ディーアイエー」と変更、創業者・佐伯永輔の「頭を使え!」の遺志(昭和487月急逝)をニューメディア時代につなげて発展中です。



栗田谷の坂の登り口にある、昭和十年代の社屋



横浜シネマ創業時、教育・文化映画に取り組んだ社員



   昭和3年11月の昭和天皇のご成婚大典

 この模様を横浜シネマでは16ミリフィルム800フィートを全5巻で製作、大好評。







   昭和13年、反町川沿いにあった各作業所

 川沿いの第
1、第2工場。手前の建物は描画室(アニメ)、その先の建物1階は現像室、2階がフィルム編集室。右奥に見える建物はスタジオ・事務所
  提供:石野英夫さん(川崎市中原区井田中ノ町)

                    横浜大空襲で全施設焼失


       横浜シネマのすべての施設が焼失、呆然とたたずむ女性が一人

 後方の丘は高島台。目の前の松本町などの家並みは焼け残ったようですが、空襲の焼け跡が目立ちます。




焼け野原となった社屋跡地で土地を耕し、野菜を作り麦を収穫、鶏を飼う

養鶏業「横浜ポートリー・ファーム」を設立し食糧の自給自足で食糧難時代を乗り切る。

 
          
戦後、ニュース映画とフィルム現像で復活


 NHKの人気アナ・トリオが箱根で遊ぶ

 「話の泉」の高橋圭三アナ(左)、「素人のど自慢」の宮田輝アナ(中)、「とんち教室」の青木一雄アナの皆さんもニュース映画の録音で横浜シネマに通いました。 NHK往年の名アナウンサーといわれた和田信賢、志村正順、竹脇昌作(俳優・竹脇無我の父)、浅沼  博、藤倉修一らも横浜シネマに通って録音しました。

  戦後の食糧難時代のこと、反町駅から同社への途中に美味しいトンカツ屋をみつけ、これを食べるのを楽しみに横浜シネマに通ったという某アナウンサーもいました。





 ニュースフィルムはNHK〜横浜シネマ間を左上のセスナ機でリレー

 横浜シネマ上空を旋回する飛行機。ニュース・フィルムはNHK〜横浜シネマ間をセスナ機やヘリコプターで空輸されました。
 

 ニュースは新鮮さが命、一刻を争う。現地で撮影されたフィルムは直ちにセスナ機で横浜シネマの上空から落とす。これを社員が拾うと急いで現像処理しプリント。その現像フィルムを社員が車(写真右)で近くの栗田谷中学校校庭で待機しているセスナ機まで届けます。と同時に飛行機は飛び立ち、フィルムは再びNHK屋上に落とされ、すぐ放送にかけられたのです。



現在の潟コシネ・ディーアイエー本社

2013.6.18 
撮影:岩田忠利

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