校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.12 昭和初期から横浜大空襲までの神奈川地区

                             昭和初期、神奈川点描



  昭和元年ころ、東神奈川駅地下道開通式

 先頭から二人目は熊野神社宮司・照本 亶さん、つぎに横浜市長・有吉忠一さん。
  提供:照本 力さん(熊野神社宮司)


写真左と同じ場所、東神奈川駅地下道、現在

左車線が海側の東口へ、右車線は西口の東白楽駅方面へ。
2013.6.18 
撮影:岩田忠利












         昭和6年、東神奈川駅西口にあった山崎タクシー

 当時のタクシーは、もちろんすべて外車。各車の前に立つ人が運転手と助手。料金は「距離1マイル半まで50銭」、いわゆる円タクではなく“銭タク”でした。
 当時タクシーや自家用車は無く、山崎タクシーは繁盛しました。とくに東白楽駅近くの鳥越に住んでいた女優・川崎弘子と尺八の名手・福田蘭童夫妻がお得意先でした。ちなみに当時、シボレーのオープンカーの新車は1300円でした。
  提供:山崎ハルさん(六角橋1丁目)


  昭和4年、青木橋を渡る市電(チンチン電車)

 市電が初めて走ったのは、明治37年7月神奈川〜大江橋の間。六角橋方面や子安方面への路線開通は、この写真の昭和4年からでした。
  提供:怡田 宏さん(上反町2丁目)



 昭和4年、青木橋(左)と横浜中央市場方面を望む

 東横線が横浜まで開通して2年後、高島山トンネルの上から撮影。
 提供:怡田 宏さん(上反町2丁目)



  昭和初期の神奈川通り、神奈川警察署前

         提供:照本  力さん(
東神奈川熊野神社宮司)

 神奈川通りを挟んで手前の海岸側は関東大震災のとき海風にあおられ全焼しましたが、向かい側の神奈川警察署側は広い第一国道が緩衝地帯となり焼けませんでした。
 


 昭和10年、神奈川通り、神奈川警察署前の市電停留所

 左記説明のとおり、大震災時に左手の海側は全焼しましたが、広い神奈川通りのお蔭で右側は延焼を免れました。
 提供:照本  力さん(東神奈川熊野神社宮司)


             
         横浜大空襲(昭和20年5月29日)の前後




 昭和8年、京浜急行仲木戸駅ホームから神奈川駅間の風景

 左後方の丘は高島台・旭ヶ丘。さえぎるものもなく、一望できます。
 提供:青木小学校



写真左と同方向を仲木戸駅から望む現在

2013.6.17 撮影石川佐智子さん(日吉)










昭和17年、防空演習

滝の橋〜中央市場前市電停留所付近。











 左の防空演習を視察の荒木貞夫陸軍大将(左から3人目のヒゲの人)

 場所は現在の青木町10−15オザキ硝子店前です。
 一国の大将たる大人物が、なぜ一町内の防空演習を視察にきたのか。どうしてもその疑問を私は解けない。
 そこでこの写真を持って、いろんな方を尋ね歩きました。そしてその真相がやっとわかりました。
 青木町で有名な呉服店の老舗だった商家の令嬢太田佐代子さんがその事実関係をよく知っていました。彼女の母親と荒木大将の奥様とが幼な友だちだったこと、大将の父親が神奈川小学校の書道の先生だったこと、こういう個人的な関係が隠されていたのでした。

 終戦後の荒木陸軍大将は、A級戦犯として逮捕され巣鴨プリズンに拘置され、極東国債軍事裁判で終身刑の判決を受けました。昭和30年病気のため出所後、昭和41年89歳の天寿を全うしています。
 
提供:照本  力さん(東神奈川熊野神社宮司)


昭和18、実戦さながらの防空演習その1

提供山室まささん(港北区新羽町)



昭和18、実戦さながらの防空演習その2

 現東神奈川2丁目の主婦の皆さんが集まり、立花屋材木店(現在地は第一国道の日産プリンス神奈川販売付近)の所で空襲に備えて防空演習のバケツリレーです。
 提供山室まささん(港北区新羽町)








  昭和20年5月29日、横浜大空襲当日

 神奈川通りの市電が架線が燃えて動かない。それを動かそうと兵士が懸命!
 市民グラフ「ヨコハマ」NO.2から








昭和20年5月29日、横浜大空襲当日の青木橋付近

空襲の最中。徒歩の人、車の人、それぞれが命からがら避難します。
市民グラフ「ヨコハマ」NO.2から

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