校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利
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NO.10
生業の漁業と漁場の消滅、子安浜…昭和の記録U
海と暮らしてきた子安浜の人たち
提供:東西興業梶i子安通)
底引き網を引き揚げる
底引き網で獲れた貝や魚
漁から帰る男衆を出迎える女衆
どこの家でも水揚げした貝や魚の出荷前で、テンテコマイです。
貝の殻むきに忙しいおばさん
見る見るうちに貝殻が山に。
子どももシャコの殻むきのお手伝い
子供たちも忙しい! 紙芝居に子供が集まらない
687年続いた生業の漁業、岐路に立つ子安浜
提供:東西興業梶i子安通)
明治以降の国の工業化推進施策により昭和2年には浅野セメント工業の450ヘクタールに及ぶ埋め立て造成の完成など京浜工業地帯の臨海部への大企業進出が加速します。子安浜の漁場は縮小され、加えて昭和30年代の海水汚染の公害から魚類が減少し極度の不漁に陥ります。 さらに大型コンテナ船入港に対応する港湾施設建設のため大規模埋め立て計画が持ち上がったのです。
弘安6年(1284)には日釣り・夜釣りの漁業が沿岸で行なわれたとされる子安浜。その後徳川幕府お抱え漁場として「御菜7カ浦」の一つと呼ばれた伝統ある子安浜が、ここでついに,687年続いた漁業を継続か終止符か、二者択一を迫られることになったのです
。
神奈川県漁民大会で子安浜の女衆は陸上抗議デモ
神奈川県漁民大会で子安浜の男衆は海上抗議デモ
昭和45年2月、最後の臨時総会
歴代組合長が額の中から見守るなか、死んだ海での漁業存続か、完全転業の全面補償か、二者択一の苦渋の選択を迫られました。
臨時総会を終え、浜通りを家路に向かう漁民
悩みに悩んだ末、全員で決議したのは全面補償、完全転職の道でした。
687年続いた子安浜漁業の灯を消す心の痛みと将来への不安、漁民の足取りも心なしか重く感じられます。
昭和46年9月22日、事業者側との協定書に調印する子安浜漁業組合長
組合長は第18代の鈴木武助さん(東西興業(株)前社長)。
いまの子安浜、点描
花を眺める余裕ができた、浜通り・元漁師の家族
写真左の家は元漁師の家。そこの奥さんの話。
「漁師時代は、悪天候の日は漁に出られない。天気が良くても海が荒れていれば漁に出られない。船には税金がかかってきます。 いまは鮮魚会社のサラリーマン。天気も、漁の出来も、税金も、そんな心配は一切ありません。花を眺める余裕ができた今が、人生でいちばん幸せな時代ですね」
2013.6.17撮影「石川佐智子さん(日吉)
屋形船のオーナーに転業した元漁師
車庫代わりにしているコンクリート製の建物が浜通りに並んでいます。これは、網などの漁具などを格納する倉庫だったようです。
2013.6.17撮影「石川佐智子さん(日吉)
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