西寺尾にあった三菱財閥の岩崎家経営の「子安農園


          大正3年創業の子安農園、大正7年の情景

 乳牛15頭、ヤギ30頭、豚120頭を飼育し、周囲に飼料とする牧草地やトウモロコシ畑があり、飼料を貯蔵するサイロと、ミルクから乳製品を生産する工場もあります。総面積は、843アールという広大なものです。
 提供:西寺尾第二小学校



            写真上の子安農園だった平成13年時

 西寺尾第二小学校、公団コンフォール西寺尾、寺尾台キャッスルのほか一般住宅、社宅、工場で埋まり、丘の上にある「子安農園ゴルフ練習場」がその名をとどめています。
 撮影:岩田忠利
 
  この写真、撮影直後にグラグラと激震、関東大震災


      大正12年9月1日、この写真撮影30分後、関東大震災が……
 
                                       提供:鈴鹿政雄さん(大口通)

 この日は土曜日。朝からの強い風と俄か雨が10時を過ぎると止み、さわやかな秋空を思わせる天気になりました。一年一度のお祭りには絶好の日和。朝湯を浴びて晴れ着姿に着替え、大人も子どもも山車の前に勢揃い。祭り気分が最高潮に達したところで、記念写真。

 その30分後のことでした。午前115844秒、雷のような地鳴り、と同時に大地は激しく上下左右に揺れる。土煙りがあがり、家は倒れ、傾いた。まさかこの地震が「関東大震災」になろうとは、だれが予知したでしょうか……。


         戦時中の大口の街



  昭和15年11月3日、大口通商店街の“明治節”

 今はこの日が「文化の日」ですが、当時は明治天皇誕生日を祝う「明治節」。どの店でも国旗を掲げ、提灯を吊るして祝います。
 提供:小島欣之助さん(大口通)


写真左と同じ場所、早朝の開店前の現在

写真左の煎茶店「立花園」などが現存しています。
2013.6.17 撮影:石川佐智子さん(日吉)


      昭和15年、現大口駅の開業以前の西口

 この年皇紀2600年。これを記念し大口青年団が現在の西口駅前に国旗掲揚塔を建てました。
 横浜線大口駅の開業は、この写真の7年後、昭和22年でした。
 提供:岩崎喜義さん(大口仲町)


写真左と同じ場所、現大口駅西口

2013.6.17 撮影:石川佐智子さん(日吉)







        戦後初の天皇巡幸の地に大口商店街。全国46都道府県の皮切りに



昭和21219日、昭和天皇は戦後初の巡幸に横浜市と川崎市を選ばれました。横浜市内では焼け跡からの復興が最も早かった大口商店街を視察されました。

                                                提供:大口商店街協同組合

 「天皇は国の象徴」という新憲法公布は、この写真の8カ月後の113日。それまで天皇は「現人神」、御真影でしかお目にかかれない雲上人。
 大口通の両側に市民が幾重にも並び、陛下のお車を頭をさげ、迎えています。大口の人たちはどんな思いでお迎えされたのでしょうか。察するに余りあります。
 同日、川崎市の巡幸は昭和電工・川崎工場でした。このとき陛下は工員たちに「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」、「家はあるのか」と尋ねられました。感極まって泣いている者が多かったそうです。
 天皇の巡幸は大口と昭和電工を皮切りにアメリカ統治下の沖縄以外の全国46都道府県を約8年半かけて回られ、行程は3万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされましたが、石一つ投げられたことはなかったそうです。
 戦後の日本が驚異的な速さで復興できたのは、天皇のこの巡幸が日本の国を一つにまとめる原動力になったからとも言われています。



昭和27年、西寺尾4丁目の蕪谷

提供:西寺尾第二小学校


写真左の昭和61年の蕪谷

提供:西寺尾第二小学校

校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.7 戦災の復興が早かった大口の街と西寺尾

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