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明治29年(1896)、117年前の神橋小学校
六角橋5丁目の秀宝寺の北側に建坪100坪の草ぶき屋根の校舎、これが最初に建った神橋小学校の全景です。
それ以前は、秀宝寺の庫裏での寺子屋学習でした。
提供:神橋小学校(六角橋5丁目)
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大正初期、六角橋2丁目・若菜巳之吉家の庭先で麦打ち
脱穀機の普及前は、クルリ棒で麦の穂を叩いて落とす“麦打ち”という農作業をしたものです。
提供:若菜健司さん(六角橋2丁目)
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明治43年(1910)、現六角橋交差点付近にあった房陽舎牧場
飲食店の末広園先代鈴木春吉さんと先々代・喜之助さんが2代にわたり、この牧場を経営していました。昭和20年5月の横浜大空襲で全焼し、この場所で飲食業に転業しました。
提供:末広園(西神奈川3丁目)
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写真左の牧場だった末広園の現在
和食と宴会「末広園」の二つのビルになっています。
2013.6.8 撮影:岩田忠利
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昭和8年、杉山神社の新調した神輿の到着を待つ人々
場所は現在の六角橋交差点。写真右手の二階家の右隣が房陽舎牧場です。 写真、左向かい側の集団がとび職と消防団員、中央に在郷軍人、右に神社氏子と神輿世話人。道路の手前は地元の見物人。
提供:山室宗作さん(六角橋2丁目)
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昭和8年、杉山神社の新調した神輿
この神輿の製作費は2500円。神輿を乗せて牛が引くのでカジ棒付きの車が150円。職人の日当が4円の時代でしたから、相当高価なものでした。
提供:北村与五郎さん(六角橋2丁目)
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神奈川大学85年の歩み
提供:神奈川大学
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六角橋の宮面ケ丘に移転して7年後、昭和12年の横浜専門学校(現神大)
周囲が農村だった頃の神奈川大学キャンパス。右上の茅ぶき屋根の農家が川崎久右衛門家(現在六角橋3丁目の川崎 修さん宅)
昭和5年に六角橋に移転した横浜専門学校
神奈川大学の前身は、横浜学院でした。昭和3年、創立者米田吉盛が弱冠29歳の若さで横浜で働く勤労青年の旺盛な勉学需要に応えるために桜木町駅前の桜木会館に夜間部だけの法科と商業経済科を始めたのでした。
翌4年横浜専門学校に昇格し、翌5年5月、東横線開通で将来発展の可能性を秘めた六角橋の宮面ケ丘に移転しました。
昭和24年、校名「神奈川大学」に改称以来、発展の一途
昭和24年には「ヨコセン」の名で親しまれた校名が学制改革で「神奈川大学」と改称します。
昭和40年に外国学部を新設したのをはじめ、法学部と経済学部の独立、工学部に建築学科を増設。さらに42年には大学院を開設するなど急速な拡大をとげ、総合大学にまで発展しました。
さらに平成元年4月、31万平方bの校地に「平塚キャンパス」を開校するなど、平成25年創立85周年を迎えたのを機に21世紀へ向け新しい大学への更なる飛躍の第一歩を踏み出しました。
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平成元年(1989)の神奈川大学を上空から望む
中央右のキャンパスの一部が、写真上のキャンパス部分です。
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昭和18年、駅前通りの主婦の防空演習後
現在の六角橋商店街が「六角橋金子町」と呼ばれていた当時です。右側の町並みはその後、強制疎開で取り壊されました。
提供:磯村あき江さん(六角橋1丁目)
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昭和18年、東口駅前の道路改修を主婦が勤労奉仕
左の垣根の下が東横線の線路。右方向が田園風景が広がる白幡町と妙蓮寺方面。
提供」宇佐美秀夫さん(六角橋2丁目)
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