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大正末期、玉川電鉄が玉川プールを開設した頃、女優と水泳選手
松竹蒲田撮影所の俳優たちと日本を代表する水泳選手たち。中央の玉川電鉄の制服の人が写真提供者・石田庄一郎さんの父・庄五郎さん。
前から2列目、右から2番目の若い女の子がのち、松竹映画の看板スター、昭和期を代表する大女優になった田中絹代です。この中に女優・夏川静江もいるそうですが……。
当時流行の最先端をゆく女優たちの水着姿をご覧ください。
提供:石田庄一郎さん(玉川3丁目)
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壮年期の田中絹代
明治42年(1909)山口県下関市生まれ。14歳で銀幕デビューし、17歳で主演女優に抜擢され、67歳で没するまでの間、約250本の映画に出演しました。なかでも壮年期以降の円熟した演技は、昭和期最高の女優といわれ、海外でも高く評価されました。
また、女優として日本で初めての映画監督となり、6作品を発表しました。
提供:石田庄一郎さん(玉川3丁目)
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昭和4年、中央がターザン映画6代目ターザン、ワイズミュウラー選手
男の子が当時7歳、写真提供者の森 光世さん。左が五輪金メダリストのドイツ人・アルネボルグ選手、右が日本の100m自由形五輪銅メダリスト・高石勝男選手。写真中央に「Henry
Weissmuller」のサインが記されています。
提供:森 光世さん(玉川1丁目)
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ターザン、
上野毛に現わる!
40代以上の人ならどなたでもご存じ、ターザン映画の主演俳優。ターザンこと、ワイズミュウラーが二子玉川にやって来ました。彼がまだ俳優になる前のことです。昭和4年(1928年)アムステルダム・オリンピック開催の年。
この大会に優勝した世界の水の覇者が朝日新聞社の招きで米・独・豪州から来日、全日本代表選手と競泳したのでした。ワイズミュウラー、アルネポルグ、ローハーなど世界新記録保持者ばかり。なかでも人気者は世界記録を24回も書き替えた超人的な水泳選手で、身長190センチ、体重90キロの堂々たる体格、そのうえにハンサムな彼でした。
写真提供者の森光世さんは、当時7歳、日本選手団のリーダー格、高石勝男選手に可愛がられていたため、ワイズミュウラーとも親しくなりました。当時玉川児童遊園地前に洋食と喫茶のモダンな店「玉川喫茶店」があり、日本選手団の合宿所の食事の世話は一切この店がやっていました。森さんは、ここの坊ちゃんです。
「まさかあの選手が、〝世界の英雄、6代目ターザン〟になるとはねえ……」と、この写真をながめながら述懐する森さん。
「私も若い頃、渋谷の映画館前の行列に並んではターザン映画を毎回観に行ったもんですよ」と楽しそうに。たしかにあの映画は、終戦直後のすさんだ日本の子どもたちの心に勇気と希望を与えてくれました。密林でつぎつぎ起きる窮地のシーン、これをターザンとチンパンジーの〝チーター〟とのコンビで木から木へと飛び移りながら現場に急行、救出する……。
当時日本の子どもたちの間でターザン映画は大ヒット、一世を風靡しました。そして男の子の遊びに森や林で飛び回る〝ターザンごっこ〟が大流行したものでした。
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昭和4年第1期水泳王国日本を築いた選手団。玉川プール
写真は第9回アムステルダム・オリンピックで大活躍した選手たち。
前列左から2番目が第10回大会で100m背泳ぎ・銀メダルの入江稔夫、3番目が100m自由形・銅メダルの高石勝男。最後列左から2番目が200m平泳ぎ・金メダルの鶴田義行。日本はこの9回大会では800mリレーに銀メダルを獲得。日本選手団は早慶明立の4大学の学生ばかりで、当時の日大にはまだ有名選手はいませんでした。
提供:森 光世さん(玉川1丁目)
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玉川プールは
世界水連公認の日本唯一のプール
現在の東急自動車学校の所にあった玉川プールは、長さ50メートル、幅25メートル、10メートルの飛込台があり、世界水連が公認する日本唯一のプールでした。
玉川電鉄がいち早く巨費を投じて建設したこのプールでは、いくたびも全日本の水泳大会が開催され、輝かしい世界記録が続々と生まれたのでした。しかし、この後、経営権は玉川電鉄から明治大学に移って「明大プール」となり、そして今、そこは東急自動車学校に替わっています。
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写真左と下の玉川プールだった現在(2013.4.19)
玉川プールだった場所は東急自動車学校に変わり、さらに現在は世田谷区立二子玉川公園の一部になっています。同自動車学校は2009 (平成 21) 年 12 月、 東京都多摩市へ移転しました。
撮影:岩田忠利
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昭和9年、夏場は連日賑わった玉川プール内にあった子どもプール
後方は多摩川の堤防、その向こうに対岸の川崎側、現川崎市高津区下野毛の森が見えます。
この子どもプールは楕円形、その周囲に3段の仕切りがあり、水温も3段階です。井戸水を汲み上げた冷たい水でしたので、水温を上げるために高い噴水形式にしています。上から滝のように降り注ぐ水に子どもたちは大はしゃぎ、子どもにたいへん人気がありました。
利用客はほとんど都心から玉電でやって来る“東京の人”でした。
提供:菱沼淳子さん(玉川2丁目)
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戦時中の上野毛・木村武雄家の農作業(現在の環八の端)
提供:木村武雄さん(上野毛2丁目)
太平洋戦争が激しくなるにつれ、玉川地区でも二十代から四十代の男性は次々出征し、農業従事者は極度の人手不足に陥ったのでした。それでも食糧増産のため夫や息子に代わってモンペ姿で働く妻や母の姿が上野毛の各地で見られました。
収穫した農産物の多くは軍用に納め、屋敷内の大木や日常品の自転車などの金属類は軍需品製造のための資材として供出が強制的でした。非農家の食糧事情は言うに及ばず、農家でも供出後のわずかな残りで過ごす耐乏生活を余儀なくされました。
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昭和18年、陸稲(おかぼ)の稲刈り
右後方はスズメ除けの案山子(かかし)です。
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稲こき
刈り取った稲を田んぼで乾燥させ、稲穂の籾をもぎ取る作業です。そばで子どもがムシロの上で遊んでいます。
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籾の選別
籾を自宅に持ち帰ってトウミにかけてクズ籾を風で吹き飛ばし選別する作業。
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夏の炎天下、一家総出で庭先で“ぼうち”
大麦の穂を穂打ち棒で打って実を取る作業を玉川地区では「ぼうち」と呼ぶそうです。目黒区では「麦打ち」と言います。
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昭和28年元旦、上野毛駅前の上野毛大橋
戦後の混乱からようやく立ち直りを見せる上野毛、快晴の静かな元旦の朝を迎えました。
提供:田中重義さん(上野毛3丁目)
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写真左から60年後の現在(2013.4.18)
上野毛大橋には東京の大動脈、環状8号線、いわゆる“環八”が走り、両側6車線に昼夜を問わず車のラッシュになります。
撮影:石川佐智子さん(日吉)
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清宮貴子内親王が平民になって隣家の住人に
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昭和35年、写真提供者・田中重義さん宅(中央森に囲まれた家)隣に清宮貴子様の新居
今上天皇の妹、清宮様が昭和35年3月、島津久永さんとご成婚、この写真の提供者・田中重義さんの家の隣に新居(中央上の長方形の白い屋根の平屋建て)とされました。清宮様は当時国民から「おスタちゃん」の愛称で呼ばれ、記者会見でのフレーズ「私の選んだ人を見てくださって……」が流行語になるなど“話題の人”でした。そのお方の結婚、そしてその新居ということで、新居見物に押しかける野次馬が連日、田中さんの家の周りをウロチョロ、その話し声の喧騒さに困惑したそうです。
田中さんの話では「ようやく地上のヤジウマが治まったかと思った昭和38年、貴子親王を誘拐し身代金5千万円を要求しようとした男が逮捕される、あの「島津貴子誘拐未遂事件」でしょ、こんどはマスコミのヘリコプターやセスナ機が空を飛び交い、騒々しくて大変な近所迷惑でしたね」
写真右手の空き地は五島美術館駐車場、その上の大きな家が東急の総帥・五島昇社長と東急の生みの親、五島慶太会長の家。
提供:田中重義さん(上野毛3丁目)
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昭和35年5月、地元上野毛主催のオスタちゃん歓迎運動会で
提供:上野毛商和会
右隣は島津久永さんの母・島津久子さん。
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オスタちゃんからの電話
運動会が終わったある日のこと、上野毛商店街の北村電気商会にオスタちゃんご自身から電話がかかってきました。恐る恐るご用件を聞くと「テレビが壊れたらしいので見に来てください」ということでした。
勝手口からお邪魔すると、電話の最中でした。しばらく待つほどに受話器を置いたオスタちゃんがみずから電話の内容を話されました。
「水道が壊れちゃって、どこに修理を頼んだらいいか、宮内庁に問い合わせているところでした」
ご成婚されてまだ数カ月のオスタちゃんが、われわれ庶民と同じように日常の家事を主婦としてやられているとは……。その現実を目の当たりにし、それは私にとって新しい発見であり、驚きと敬服の念でいっぱいでした。
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テレビのある部屋に通されると、そこには小型の白黒テレビがありました。私が「持って帰って修理しますから、代わりのテレビをお持ちしましょうか」と尋ねると、「いや、結構でございます」。オスタちゃんのはっきりしたお返事でした。
数日して、修理済みの白黒テレビを持参しました。修理代は手が切れるようなピン札の1000円を渡しながら「ご苦労様でございました」とオスタちゃんの言葉が帰ってきました。
「なにしろ緊張のしっぱなしで、くわしくは覚えていないんですよ。おそれおおくって、いや~お品があり、それに圧倒されちゃって……」。頭をかきながら話す北村さんです。
北村さんは、その1000円札を“お守り”として定期入れにしまって持ち歩いているそうです。 |
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昭和56年7月、上野毛駅
撮影:「とうよこ沿線」編集室
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昭和56年(1981)7月、崖下にある上野毛駅のホーム
撮影:「とうよこ沿線」編集室
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