校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利

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NO.5 昭和8年〜15年の等々力


  昭和8年6月、豊田家の庭先で麦の棒打(ぼうち)

 脱穀機の普及前は、クルリ棒で麦の穂を叩いて落とす“棒打(ぼうち)”という農作業をしたものです。横浜や目黒などの地域では“麦打ち”。掛け声でお互いに調子を合わせクルリ棒を回します。
 この作業中に歌った労働歌「目黒麦打ち唄」が目黒区には現存しています。

 提供:豊田真佐男さん(等々力1丁目)


     無理やり買わされた“10円国債”

 「支那事変割引国庫債券『拾圓』」は、発行日・昭和14年6月13日、発行価格七円、償還期日・昭和24年7月30日。

 当時この国債は、隣組から割り当てできた、強制的なものでした。戦中、戦後の生活苦の中からその支払いにやり繰り、やっと満期を迎えたころの10円は、ヤミ市で「魚一切れ分」だったそうです。
  提供:豊田真佐男さん(等々力1丁目)


   昭和10年、ホタルと魚の楽園だった六郷用水

 写真は等々力1丁目3番の豊田博高さん宅物置の前を流れる六郷用水。昭和28年までホタルが飛び交い、フナ、ドジョウなど魚がいっぱい獲れました。不思議にも翌年からホタルが一匹も見られなくなった、と豊田真佐男さんは話します。
 提供:豊田真佐男さん(等々力1丁目)



   写真左の場所、現在(2013.4.18)

 先の橋が目黒通りに架かる玉根橋。右の家が豊田博高さん宅。六郷用水を世田谷区内では「丸子川」と表示しています。
 撮影:岩田忠利




昭和15年右の建物が等々力駅舎。尾山台方面を望む

提供:片瀬 進さん(等々力3丁目)





     写真左の同じ場所、現在(2013.4.11)

 右後方の駅舎の屋根の形だけは変わっていないようです。左手が写真提供の片瀬 進さんの理容店。
 撮影:岩田忠利


昭和15年、上野毛から1両電車が等々力駅に入る

人影が見ない、静かな町のたたずまいですね。
提供:片瀬 進さん(等々力3丁目)



写真左と同じ場所、現在(2013.4.18)

上野毛から来た電車が等々力駅にはいります。
撮影:岩田忠利


昭和15年の等々力駅前通り

ご夫婦らしき二人が並んで通ると、道幅はこの狭さ。

提供:片瀬 進さん(等々力3丁目)


     写真左の駅前通り、現在(2013.4.18)

 道幅が何倍も拡がり駅前通りらしくなりました。右手のクスリ屋さんは健在です。
 撮影:岩田忠利





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