戦時中の奥沢



昭和15年(1940)10月11日、紀元2600年祭、奥沢銀座通りの賑わい

 右手の町並みは上田たばこ店、ヤング軒、小泉ガラス店、白柏金物店、遠藤時計店、下田薬局。左側手前から根岸酒店、松本果物店、池田屋下駄店、鈴木茶店、大黒屋呉服店。

 提供:毛利隆詮さん(奥沢4丁目)


  写真左と同じ場所の現在(2013.4.11)

 左の街並みで同業種で現存している店は、左手前の根岸酒店だけでした。
 撮影:岩田忠利










  昭和17年、奥沢神社の祭り。太鼓を引く子どもたち

 後方が奥沢駅。今の自由通りと奥沢銀座通りの分岐点あたり。左側に。清月菓子店、文雅堂書店の看板が見えます。
 提供:奥沢神社(奥沢5丁目)


写真左の場所、現在(2013.5.4)

撮影:岩田忠利




 昭和17年、奥沢神社の祭り

 奥沢神社前の自由通りを練り歩くみこしと太鼓。後方左手に駅前交番と奥沢駅。
 通りを子どもたちが埋め尽くす賑わいと活気は、戦後まで玉川税務署管内で最高の多額納税地、奥沢の繁栄ぶりを示しているようです。右手前にテーラー土屋、左手にミツル屋酒店の店名が見えます。
 提供:奥沢神社(奥沢5丁目)



写真左と同じ場所から駅方面を望む現在(2013.4.11

撮影:岩田忠利




    昭和19年、燃料不足は深刻で炭を焼く

 終戦直前直後の燃料不足は深刻そのもの。一般家庭では石炭の燃えかす、“コークス”を使っていましたが、それすら逼迫するように。
 写真提供者、毛利さんの家では知人のツテを頼りに高崎線北本の“炭焼き小屋”へ家族で行って炭を焼き、それを大八車で持ち帰り、使っていました。
 提供:毛利隆詮さん(奥沢4丁目)


   昭和24年8月、戦後初の町内盆踊り大会

 場所は駅前交番前の空き地(現三菱銀行寮)。それ以前、交番前の一角は社会人野球チーム「明電舎」のグラウンドでした。白球を追う選手たちの姿がよく見られました。
 提供:小島 勇さん(奥沢5丁目)


             
            山田五十鈴主演映画のロケ


昭和27年女優山田五十鈴が駅前で映画ロケ。電車が一時運休?!

 終戦の混乱からようやく落ち着きを取り戻したこの頃、映画は全盛期を迎えました。銀幕の大スター、山田五十鈴(写真手前、風呂敷包みを抱えた女性)を一目見たさに奥沢のお母さん方が押しかけ、危険を感じた目蒲線の電車が一時運休するほどの大騒ぎでした。
 右手が駅前交番と変電所、左の子犬を抱いた人が写真提供者・小島 勇さん。
 提供:小島 勇さん(奥沢5丁目)


写真左の同じ場所、現在(2013.4.11)

右が奥沢駅、その先が駅前交番。
撮影:岩田忠利





 
 
地域寄席の草分け 昭和37年から7年間続いた奥沢落語会

 
 奥沢の街には笑いがなく、活気がないと実感していた人がいます。それは写真提供者。小島勇さんの長男、小島三郎さん(小島歯科院長)。昭和37年春、落語家たちを奥沢に呼んで「奥沢落語会」を自費で開きました。
 
 会場は奥沢神社社務所。舞台装置、提灯、演題、すべて手づくり。それも絵や民芸品作りが得意な父、小島勇さんの作です。
 毎月1回の公演は毎回玄関先まで80人の観客で溢れる大盛況。これが地域で行なわれる落語寄席の“草分け”と珍しがられ、TBSラジオが後援して全国放送するほどに。出演者も文楽・金馬・円生・小さんら当代一流噺家がトリを務め、7年間続いたのでした。


中央は先々代・三遊亭金馬師匠。後ろの人が主催者・小島三郎さん、前の人・父親の小島勇さん
 提供:小島 勇さん(奥沢5丁目)


昭和37年、漫談界の大御所、牧野周一の熱演
 
 その当時、牧野周一の弟子、牧 伸二はまだ駆け出しのカバン持ちで、よく奥沢についてきていたそうです。

 提供:小島 勇さん(奥沢5丁目)


昭和37年春、第1回奥澤落語会のトリを務める、
三遊亭円生師匠

提供:小島 勇さん(奥沢5丁目)

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題字:新舟律子/ロゴデザイン:配野美矢子/校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利

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NO.2 時代を映す人々の営み 奥沢特集2