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大正7年(1918)、玉川村立八幡尋常小学校卒業のとき
最前列中央が第5代校長・佐藤静校長。一人おいて右に保護者代表の2人。
女の先生と女の子のヘアースタイルにご注目! 先生の髪型は「ハイカラ」と言い、女の子全員のが「稚児まげ」。
生徒は全員着物で、履物は藁や竹の皮の草履、学用品を包んだ風呂敷を斜めに背負って登校しました。進学者はほとんど無く、家で畑仕事や家事手伝いでした。
提供:毛利隆詮さん(奥沢4丁目)
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昭和7年、八幡尋常小学校の横門
同小学校は奥沢神社が八幡神社と呼ばれていた明治12年に境内で開校し、その後明治35年に現在の玉川田園調布2丁目に移転しました。
大正2年卒業の荒井良治さんの話では「私が入学したころの校舎は、どこかの農家を移築したもので、教室の真ん中に大きな柱がありました」。
提供:鈴木 宗さん(奥沢4丁目)
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大正末期の奥沢神社
奥沢村の鎮守の森らしく周囲が畑の中に樹木がこんもり生い茂っています。左に見える小屋は、神社の管理をしていた留守番の人の家族が住んでいた家。
提供:奥沢神社(奥沢5丁目)
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写真左の奥沢神社の現在(2013.4.11)
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昭和5年、ガラス店店主の家族
写真提供の毛利隆詮さんは大正15年に奥沢銀座通りで小泉ガラス店を開業しました。多摩川べりに約1万坪の“温室村”があり、そこがお得意先で忙しい毎日を送っていました。左端が本人。
提供:毛利隆詮さん(奥沢4丁目)
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昭和8年、冬の奥沢
後方中央の茅葺きの家は現奥沢4丁目11番付近、サンケイカメラの原武夫さん宅です。当時の奥沢は、このような一面畑が広がる純農村風景でした。雪の中の野菜はネギ。
提供:鈴木 宗さん(奥沢4丁目)
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昭和8年、水の神、弁天様のお宮改修記念
現在のみつば電気の所に弁天様があり、いつもこんこんと清水が湧き出ていました。そこは60坪ほどの池となり、その水が石川台方面に広がる田んぼの灌漑用水として利用され、農家にとっては“命の水”でした。
提供:毛利隆詮さん(奥沢4丁目)
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80年前の昭和8年、NHKラジオで全国放送の奥沢囃子
提供:鈴木 宗さん(奥沢4丁目)
奥沢囃子(はやし)が最初にラジオで放送されたのは昭和2年。その時は名人の根岸寅吉さん(写真前列中央)ほか5名が出演しました。
奥沢囃子は根岸家の一族が代々受け継いでいましたが、とくに寅吉さんは鉦、笛、太鼓とすべてに秀でていたという。
等々力のお囃子の人たちも稽古に根岸家によく来ていたようです。当時はお祭りが近づくと、根岸家に集まり稽古をしていました。そして等々力や遠くは品川まで祭礼の時出張しました。
そのような奥沢囃子をNHKが取り上げたのです。今から86年も昔のこと、マスコミに出ることは大変珍しいこと。奥沢じゅうが大騒ぎになったようです。
またNHKの車が迎えに来たとかで、当時まだ車も珍しい頃だったので大変感動した、と寅吉さんは話していたそうです。
取材・文:倉田和枝(「とうよこ沿線」編集室)
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昭和7年、調布学園の裏を走る“新奥沢線”の軌道
右下に当時の「諏訪分駅」のホームの屋根の一部が見えます。その延長線が始発の雪が谷大塚駅、終点は諏訪分駅の次の「新奥沢駅」。新奥沢線はわずか2駅だけの1.6キロの距離でしたが、昭和3年10月から10年10月末までの7年間走っていました。
線路の両側は現在玉川2丁目の住宅地ですが、当時は一面の畑。調布学園前の線路と並行の通りは、いまの環八通りの原型の道。その道の左側が木々に囲まれた田園調布の住宅街。
提供:調布学園(玉川2丁目)
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昭和8年10月、太鼓の新調記念。新奥沢駅前で
場所は写真左の新奥沢線の新奥沢駅前。太鼓の後に電車が写っています。わずか7年間の運行を証明する写真です。
提供:毛利隆詮さん(奥沢4丁目)
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昭和9年、奥沢尋常小学校第1回運動会
校舎2階の窓の下に「遺家族席」と書かれているのが見えます。昭和7年に八幡尋常小学校の分教場であった同校は、昭和8年12月1日付けて独立し奥沢尋常小学校となって初めての運動会です。
提供:毛利隆詮さん(奥沢4丁目)
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昭和11年1月、玉川消防組第2支部・奥沢の出初式
当時の消防小屋と望楼は、奥沢駅前交番から等々力通りを100メートルほど先の右側にありました。消防車はフォード製で第1支部の等々力、第3支部の用賀と一緒に3台一括購入でした。
提供:毛利隆詮さん(奥沢4丁目)
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