こどもの国開園(昭和40年)前、昭和38年の風景


                                                 提供:金子 智さん(奈良町)


昭和38年4月、奈良山の麓の旧奈良小学校
             提供:金子 智さん(奈良町)


奈良山前にあった旧奈良小の跡地

2013.10.13 撮影:石川佐智子さん(日吉)






          昭和38年5月、中恩田十字路

 2本の県道が交差する中恩田十字路。直進は奈良町、手前方向が田奈町。左方向、町田市。右方向、青葉台。

  提供:石井鋭儀さん(奈良町


   写真左の現交差点「中恩田橋」

 交差点左角は東急長津田車両工場。道路は、こどもの国通りで直進方向がこどもの国。
  2013.5.29 
撮影:石川佐智子さん(日吉)






      昭和38年6月、戸数8軒の西谷戸の集落

 上の写真の現在地は、西谷戸の水田の一部は横浜市の市有地「奈良町はらっば」となり無償で市民が利用できる公共の場、一部は奈良地域ケアプラザとして福祉活動の拠点になっています。
歴史ある奈良と恩田

 こどもの国線沿線の奈良町と恩田町は、どちらもその名が鎌倉時代の文献に登場する歴史のある所です。

 奈良五郎、奈良弥五郎に由来

 “奈良”は『吾妻鏡』には建久元年(1190年)、源頼朝が上洛のとき随行した奈良五郎、奈良弥五郎の名前が記されていますが、この二人は地名「奈良」と関係がある御家人といわれています。それを裏付けるかのように義経が東北の平泉に逃れる際に通ったという裏街道が、現在の玉川学園の東側にあったり、その近くにある本山の池(現奈良池)にまつわる悲恋伝説があったりで、歴史的にたいへん興味深い土地です。

  鎌倉時代の恩田氏に由来

 “恩田”は鎌倉時代の恩田氏に関する永仁年間(12931298)の史実が多く残っています。また江戸時代の天保14年(1843年)の記録には家数183軒とあり、当時からかなり大きな恩田郷でした。
 恩田町となった近代では今の青葉区、緑区、町田市の一部を占める面積が恩田町の地域。
 現在の青葉区内の町名では現恩田町のほか、つつじが丘・藤が丘2丁目・青葉台1〜2丁目・榎が丘・松風台・桂台1〜2丁目・桜台・たちばな台2丁目・鴨志田町・上谷本町・しらとり台・さつきが丘・若草台・すみよし台・あかね台・田奈町を含む広大な面積でした。



         昭和35年、地蔵谷戸の水田

 地蔵堂谷戸の苗取りの情景です。周囲を緑の丘に囲まれ、春は新緑、夏はホタルが飛び、秋は脱穀後の稲束を干したワラボッチが並び、変化に富んだ四季がありました。
 今は谷戸が埋められ整然と区画された駅前住宅地に変わりました。
  提供:関根忠夫さん(奈良1丁目)



昭和2510月、念願の市営バス開通

青年団が住吉神社前にアーチを作って祝いました。
 提供:黒滝昭治さん(奈良2丁目)




昭和37年6月、奈良町の旧バス折り返し所

提供:金子 智さん(奈良町)


こどもの国開園後の風景


   単線の「子どもの国線」、発着駅の長津田駅ホーム

右手がこどもの国駅方面行きの線路。正面の電車は、単線のため待機中です。
  2013.10.13 
撮影:石川佐智子さん(日吉)



昭和42年、こどもの国駅ホームと電車

提供:石井鋭儀さん(奈良町



昭和42年、こどもの国駅舎

提供:石井鋭儀さん(奈良町


   昭和42年4月、金子家で食堂・金子園開店

 左手が母屋、食堂は右手。食堂の向かい側が駅です。

 提供:金子 智さん(奈良町)





   金子園は写真上の左側にあった現在地

 ここは現在こどもの国駅前のロータリー。現在の食堂・金子園は写真上の右側にあるビル2階で営業しています。
  2013.10.13 撮影:石川佐智子さん(日吉)



昭和41年、人家が見えない奈良町・西谷戸
提供:石井鋭儀さん(奈良町




写真左と同じ場所の平成14年時

正面の建物は奈良地域ケアプラザの青葉メゾン。

提供:石井鋭儀さん(奈良町

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MAP:子どもの国駅地区

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校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

NO.30
こどもの国駅周辺の風景