
開通当日の昭和41年4月1日、ホームに立つ青葉台2丁目の小学5年生・上原(旧姓・藤本)圭子さん
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駅名の由来と「青葉台」の街
藤本静江さん(青葉台2丁目自治会元会長)
電車開通当時の青葉台駅周辺の姿を知っている私は、訪ねるたびに街の様相が変わるその変貌ぶりには目を見張ったものです。
駅前の高層ビル群は、ビルが建つたび高さを競うように高く伸び、環状4号線沿いの商店街も年ごとに数珠のように南北に長くなっていきます。おそらく青葉台の街が田園都市線の中で最も急速に、最も短期間に大きな街に発展した街でしょう。
それだけにその弊害が心配です。週末の環状4号線の渋滞はその一つ。駅頭に立つ限りでは“まとまった青葉”が見られません。「四季を通じて緑と太陽の豊かな街に」という駅名の由来どおり、エネルギッシュな青葉台の街には将来、自然に抱かれた調和ある街に発展してもらいたいものです。
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昭和40年9月電車開通前、登場したのは大きな階段
上の写真に写る高く、大きな階段で通称“62階段”。「何、これ? 五島慶太さんの銅像でも建つのかしら」と噂されていました。
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写真左から1年後、昭和41年9月、工事現場
銅像ではなく、「東急バラエティ」という建物の大規模な建築現場でした。
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駅前広場に噴水がありました
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噴水から樹木の植え込みになっている現駅前
2013.9.26 撮影:石川佐智子さん(日吉) |
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時を告げるモニュメント「風見の鶏」
昭和41年4月の開通当時、時間をチャイムで知らせる向井良吉氏作のモニュメント「風見の鶏」(写真左の塔)が建っていました。駅前通りにまだ建物はなく、後方の青場台2丁目まで一望できました。
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駅まで一望、青葉台2丁目からの眺め
昭和40年9月、現青葉台コミュニティハウス前、青葉台2丁目12番地の小榑(こぐれ)さん宅から駅方面を望む風景。電車開通前は、駅までこのように一望できました。
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開通当時、青葉台第二公園から桜台方面
「四号公園」の標識が現在の「青葉台第二公園」に。桜台方面には後方に桜台団地が見えるだけでした。
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写真左の平成12年時の青葉台第二公園
青葉台2丁目にある同公園は樹木も茂り、住民も増え、写真は平成12年、同公園で開いた2丁目自治会納涼大会の模様です。
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昭和40年2月、青葉台中学校前
右手に人が立っている所が現在の青葉台中学校前、青葉台2丁目21番地。左手の森は松風台。森の中には獣道(けものみち)のような道しかありませんでした。
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写真左の現在の青葉台中学校前
2013.9.27 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和40年青葉台2丁目から松風台の梅林を望む
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写真左の梅林だった所の現在の景観
往年の梅の名所、梅林にライムライト松風台3が建ち、今や通称「ピンク・マンション」といえば知らない人がいない有名スポットです。
2013.9.27 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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