校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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駅開業10ヵ月後、昭和42年2月、もう高層ビルが何棟も

                                 パノラマ撮影:富田克己さん(つつじが丘)





下の写真は上の写真の左端につながります。


昭和42年と44年、青葉台公園(通称きのこ公園)からの風景

                            提供:橋本きよ子さん(たちばな台)


昭和424月、青葉台公園から青葉台2丁目方面を望む。電柱にまだ電線がない。左後方の森は松風台、右後方に川崎汽船社員アパートや桜台団地が見えます。


昭和44年、駅前から駅前通りと246号線方面を望む。駅前通りに薬屋さんや花屋さんなどが出店し、だんだん駅前商店街らしくなっていくようです。



昭和44年、青葉台初の幼稚園が開園

それは榎が丘に建った青葉台幼稚園です。
提供:大沼 忠さん(つつじが丘)



   
      
新天地の生活

                   
藤本静江さん(主婦)

 青葉台に引っ越してきた昭和42年当時、このあたりは寂しい所で何かと生活するのが不便でした。周りに人家がなく、冬は高台の家に北風が容赦なく吹きつけて、寒さがひとしおでした。
 生活上、困ったことは水道管が凍って午前中いっぱいは水が出ないことです。また、雨降りの日は造成したばかりの道が泥んこ道で、駅まで長靴を持って主人や娘の送り迎えも主婦の日課の一つでした。

 買い物は駅前に東光ストアが1店あるだけ、自由が丘、溝の口、長津田まで行かないと間に合いませんでした。来客の接待も近くにお店がないので、何でも手作りの自家製です。
 電車は30分に1本。それも鷺沼駅までは4両編成でしたが、その先は両だけ。電車の中はいつも空いていて顔見知りの方が多く、「奥様、きょうはどちらへ?」なんて言葉を交わすアットホームなものでした。

 そうした不便さや長閑さが徐々になくなってきたのは昭和45年からの人口急増でした。




   昭和42年2月、坂下の左側に東光ストアがあるつつじが丘

 右手の家並みは手前から藤原さん、この写真撮影の富田さん、古性さん。後方左手に建築中の公団住宅が見えます。
  撮影:富田克己さん(つつじが丘)



   写真左と同じ場所の現在

 道は平坦に見えますが、急坂です。はるか後方中央に見える高層ビルが建設中だった駅前の公団住宅。
 2013.9.28 
撮影:石川佐智子さん(日吉)









   突然で恐縮ですが、トラさん登場!

  じつは、昭和42年8月、映画『泣いてたまるか』のロケで俳優・渥美 清が桜台の森 勇さん宅に滞在していました。役柄が植物学者だったため屋敷内に温室を建てたりして森さんは何かと忙しかったとか。
 でも寅さん、気さくな人で家族のように振る舞うので何の気苦労もいらなかったそうです。
 手前の3人は女優や子役ではなく、森さんの奥さんとお子さん。


     昭和46年6月、青葉台小学校創立

 校舎は右手の鉄筋4階建て。校庭の文字は創立を記念した児童の人文字です。左手の建物は日本ガイシ社員アパート。
 提供:森勇さん(桜台)










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駅開業翌42年〜46年、駅前周辺の変貌