校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.20
 戦中、戦後の藤が丘(上谷本)の人たち


      真珠湾攻撃に参戦した廣田豊さん
                     提供:廣田利夫さん(藤が丘)

 昭和11年、兄弟で入営検査合格のとき。海軍志願兵の豊さん(右)、弟の要さん(左)は陸軍志願兵でした。

 康田豊さんは軍艦「赤城」の整備兵でした。昭和16127日、海軍機によるハワイ真珠湾奇襲攻撃に軍艦「赤城」は参戦し沈没しました。そのとき豊さんはハワイ沖で漂流しているところを幸い救助され九死に一生を得ました。その後もラバウルなどに出征していた気丈な海軍兵でした。



   昭和17年、田んぼに造った舞台で演芸会

 上谷本青年団は稲刈り後の田んぼに舞台を作って出征家族慰安の演芸会を開きました。

  提供:芳浜武代さん(千草台)










 昭和16年、男子団員が女子の3分の1に満たず、中里青年団解散
   提供:飯田逸郎さん(藤が丘)

 男子は次々戦地に召集され、中里村の青年団はご覧のように写真右側にちょこっとかたまっている程度です。



  昭和19年、兵士が家族と栗拾い
  提供:石原 博さん(柿の木台)

 兵役中の石原正行さんの長男・正彦さん(左から2番目)が休暇をとって帰省し、自宅前の栗山(現藤が丘ゴルフ場)で家族と栗拾い。





    15人家族の石原正行家
                      提供:石原 博さん(柿の木台)

 玄関先に並んだ家族15人。後列右から次女・武代、長女・喜久代、父・正行、長男・正彦、次男・博(当主)、3男・勇の皆さん前列に祖母・トリさんと母・ヨ子(よねこ)さん。
 戸籍上では男、8女でしたが、幼児期に名が亡くなり、写真の長男・正彦さんはこのときを最後に戦死されました。



    昭和26年、出張の写真屋撮影の写真
                       提供:石原功さん(柿の木台)


 
6年生が先生と一緒に上谷本池(現もえぎ野池)にザリガニ釣りに出かけました。当時はカメラを持っている人が少なく、この写真は先生が川崎の写真屋さんに頼んで出張撮影してもらったものだそうです。




    昭和27年、青年会のソロバン教室
                       提供:石原功さん(柿の木台)

 当時は電卓やパソコンのない、読み書き、ソロバンの時代。上谷本町青年会が上谷本公会堂で毎週土曜日、「珠算土曜会」というソロバン教室を開いて青年たちに教えていました。先生は鉢巻の人、石原 勇さん。











    昭和37年、特産「禅寺丸柿」出荷準備
                    提供:石原功さん(柿の木台)

   町名「柿の木台」と禅寺丸柿

 いま果物店の店頭に並ぶ柿の主流は富有柿などの大粒なものですが、それより小粒な禅寺丸柿がこの地域のどこの家の庭先にもありました。果肉に黒い渋が浮いて、すごく甘い。その甘さといったら柿の中では抜群。
 隔年結果ですが、生る年は枝が折れそうになるほどたわわに実をつけます。
 近年、原産地の川崎市麻生区王禅寺地区では「禅寺丸柿の復活で町おこしを」と柿ワインの生産を始めたという。町名「柿の木台」もこの地域に柿の木が多かったことに由来します。

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