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高い所や高いものが好きな(?)市ヶ尾の人
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おっと、猿ではなく人間の木登り!
昭和12年、木に登った子どもたち。ここは朝光寺の西側(現在の緑税務署前付近)
この光景を現代の母親や小学校の先生が目撃したら何とおっしやるでしょう? 当時は大人が黙認しこの光景をカメラに収めていました。 提供:森 正男さん(市ヶ尾町)
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山車や幟(のぼり)の高さは中里村で最高
昭和11年10月、下市ヶ尾・杉山神社の祭礼の山車。右手前の幟とその山車の高さは、近郷近在に無い村一番でした。
提供:森 実さん(市ヶ尾町) |
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こちらの杉は30bを超す村一番の高さ
昭和14年、下市ヶ尾・杉山神社のご神木の杉。目通しの太さは3、4人の大人が抱えるほどで、その頂は天を突き、下市ヶ尾の道しるべになっていました。
提供:森 正男さん(市ヶ尾町)
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昭和初期の呉服屋さん
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提供:森 正男さん(市ヶ尾町) |
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昭和6年正月、上麻生道路に面した下市ケ尾の車屋呉服店
初代の森 孝作さんは土地っ子で9歳のとき町田市図師の呉服店「車屋」に丁稚奉公、修業があけて明治36年に車屋の暖簾をいただき地元に戻り下市ヶ尾に店を構え独立しました。信用第一をモットーに顧客のニーズに応える商法に徹して店は発展、中山、横浜・藤棚、綱島などに支店を設けるまでになりました。
左手、茅葺きの家は「市ヶ尾のまんじゅう屋」で有名だった森田屋。
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写真左と同じ場所の現在地
右手のビルは交差点「谷本小学校入口」にある車屋呉服店。道は上麻生道路。
2013.9.17 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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印半纏に鳥打帽スタイルの呉服の行商
昭和11年3月、若い店員は印半纏(しるしばんてん)に鳥打ち帽の出で立ち。自転車の荷台に柳行李を風呂敷で包み、しっかり紐で結わえて、さあ、お得意先へ出発!
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タンスの仕入れに
昭和28年、注文のタンスを仕入れに厚木まで行って来た従業員・金子英−さん。
トラックがない時代、自転車にリヤカーを付けてその代用にしていました。
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この写真の8日前、2・26事件勃発、役場に集合した村民
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提供:森 実さん(市ヶ尾町) |
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「まづ働け」の意味
この写真撮影の8日前、2月26日に有名な2・26事件は起きました。それは青年将校20人らが約1400人の下士官を率いて時の内閣の重臣らを次々と殺害し永田町一帯を占拠して国家改造を要求する、いわゆるクーデターでした。
その翌日、東京に戒厳令が布告され、その戒厳司令部は市民への避難心得を発表したりしました。
そんな政情不安の中、全国民は貧窮にあえいでいて、国民の精神状態はきわめて不安定でした。
そこで中里村では村長以下の有力者が役場に集まり、旗を作り村民に向け檄(げき)を飛ばしたのです。
政情や世相がどうあれ、「まづ働け」。懸命に働くうちに、やがて政情は安定するから、でした。
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旗「まづ働け」
昭和11年3月6日、中里村の有力者が役場に集まり村民の精神的動揺を鎮めるため「更正振興会」という会を発足させ決起しました。
「まづ働け」の旗を持つのは左側が金子錠吉村長(寺家町)、右側が村会議員・谷本善吉さん(千草台)です。
いま中里村役場の跡地は田園都市線の高架下。後方の丘は東福寺、朝光寺などがある下市ヶ尾。
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戦後初の祭り
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昭和21年10月、戦時中、中断していた杉山神社の祭りが復活
みんなの喜びが大きな万灯となって、表れています。まだ戦闘帽に国防服姿の男性が目立ちます。
提供:森 正男さん(市ヶ尾町) |
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二度も農地を買収された並木さん
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提供:並木誠久さん(佐江戸町)
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昭和59年、トラックで“通勤”し田植え中の並木誠久夫妻
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稲刈り
左手のカゴは、湿地の水田で稲を束ねるときに使う“カッチキ”という竹カゴ。後方、稲の掛け干しの先が東名高速道路になりました。
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平成10年3月、青葉インターと246号市ヶ尾立体交差点開通式
提供:吉浜利一さん(千草台) |
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耕作地が料金所の真下
佐江戸町の並木誠久さんの家では同町内の水田を工業団地用地に買収され、その代替地として下谷本町に農地を買いました。トラックで15分ほどかけては佐江戸から“通勤農業“に励んでいました。
ところが、今度はその水田が青葉インターチェンジ用地に当たると聞いてびっくり!
やがて、その農地も買収され、工事が進んだある日、並木さんは工事現場を訪ね、責任者に水田の跡を確かめました。
「お宅の田んぼがあった場所は、ちょうど料金所の真下ですよ」とその人。
なるほどねぇ、当たる人はホントによく当たるものです。並木さん、宝くじのほうは、どうなのかな?
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