校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.14
 明治・大正時代の荏田、住民の暮らし

            明治・大正期の人たち


      明治時代の軍人

 明治27年(18947月、日清戦争に出征する弟・徳江信次即さん(左。23歳)と兄・徳江弥吉さん(26歳。徳江義治さんの祖父)。この年81日、日清戦争が勃発しました。
 提供:徳江義治さん(荏田町)










 大正5年(1916)3月、山内第二尋常小学校卒業記念

 真福寺本堂前で。97年前の子供たちの服装とヘアースタイルにご注目!
          提供:徳江義治さん(荏田町)



  大正5年、荏田・柚木の植木職人の家族

 妻・ハナさんのお酌で一杯やる夫・大久保仙太郎さん。右は長男・茂平さん。

  提供:大久保国光さん(荏田町)
157年前開業の横山医院、初代院長・三省(さんせい)先生

  青葉区内最古の医院

 江田駅前に程近い246号線と旧大山街道が交わる所、旧道沿いに横山医院はあります。
 現院長の横山博先生は5代目の医師。初代・豊次郎先生は東京の外科医と内科医の内弟子として8年間医学を学び、ここ荏田で安政3年(1856)に開業したというから今から157年前……。もちろん青葉区内で現在開業中の医院の中では最も古い。
 この初代は本名・豊次郎のほかに“三省”を名乗っていました。「毎日、三たび反省すること」が信条。この謙虚な村医者は本業のかたわら山内村の村会議員や学務委員(現教育委員)として地域のためにも尽くされました。なかでも福祉事業への協力を惜しみませんでした。

  里親制度の普及に尽力

 当時、東京麻布が本部の福田会(ふくでんかい)という家庭的に不幸な子や災害などで身寄りのない子を救う福祉団体があり、ここで歳までの乳児たちを預かる院外養育、いわゆる「里親制度」を三省先生は都筑郡と橘樹郡に導入することに活躍しました。
 先生は里子が里親のもとで病気になると治療費はとりませんでした。明治44年の記録では三省先生担当の里子が44名いたと記されています。
 この子たちは成長すると親元や会に帰されましたが、中には養女や養子となってこの地に残って独立する男子や土地っ子と結婚する女子もいました。

 本書の取材中、たびたび山内地区で里親制度の話が出ましたが、“里親の親”はこの横山三省先生であったことを初めて知ったのでした。



大正末期、人力車で往診に出かける2代目・
横山謙次郎先生

 提供:横山博さん(荏田町)



自宅でくつろぐ2代目・謙次郎先生
(博先生の曾祖父)

大正時代、野菜栽培の拠点となった山内村


          大正14年、山内村荏田修養部蔬菜試作場

 大正148月、山内修養部(実業補習学校)で野菜栽培の実習。修養部には徴兵検査前の青年団員が所属していました。その部長は飯島又右衛門先生(飯島武靖さんの父。写真の右端)でナスとキュウの共同苗作りの指導。この疏菜作りは大正12年の関東大震災後の農村の振興に寄与する目的で山内村の青年たちが団結して取り組みました。のち、これが実を結び、荏田地域から近隣の村々へと野菜栽培普及の源になったのです。
 写真の現在地は荏田町宿の東急ドエル・江田ビレッジB棟。後方の家は屋号「豆腐屋」と「桶屋」。

   提供:飯島武靖さん(あざみ野)


      大正15年夏、山内村荏田修養部蔬菜家庭試作地

 上の写真は共同苗作りでしたが、翌年から苗を会員に配り、各家の畑でナスやキュウリの栽培を実習しました。そのモデルとなったのが石渡佐太郎・栄助さんの畑。現在地は右手後方の現東名高速道の深坪橋付近にあった赤田谷戸の徳江義衛さん宅。
 写真前列右から山内第二尋常小学校の校長・山中善雄さん、山内村村長・松澤丹治さん(渋沢)、石渡栄助さん、飯島又右衛門さん。
  提供:飯島武靖さん(あざみ野)

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