
大正12年、田沢逢太さん(左から3人目)の家族
厚いボール紙の台紙に「大正12年9月 武州・川和フォトスタジオ」と年月が記され、写真館のネームが貼ってあります。
提供:飯島武靖さん(あざみ野)
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田沢家は飯島武靖さんの親戚で、昔は近くに住んでいましたが、いま、一族はあざみ野に住んでいないそうです。大正時代のこの写真を説明できる人がいません。
当方で見る限り、両親と子供6人全員が神妙な表情で写っているこの写真には、何か重大なことが隠されているような気がします。皆さんも、推測してみてください。
縁台に柄杓が入った手桶と茶碗。後方に人もいる。この情景からみて撮影場所は通行人や旅人が馬を止めて休憩する“立場(たてば)”、現代のドライブインです。
撮影が大正12年9月といえば、この年9月1日は関東大震災。子供たちを荷車に乗せ、家族揃って震災に遭った横浜の親戚にでも田沢家が現あざみ野2丁目から川和を通って見舞いに行く途中でしょうか。それにしても、なぜ川和で家族の記念写真を撮ったのでしょうか。川和町には今でも確かに上麻生道路沿いにバス停「立場」があります。
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昭和5年11月、山内村青年団バレーボール部
提供:松本九一さん(美しが丘5丁目)
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地元出身で山内小学校の教諭であった吉村宇左衛門先生(右端)がバレーボールを熱心に指導するおかげで山内青年団は、都筑郡内の大会では抜群の強さでした。
後列右から3人目は校長の白井隆資先生(大場町)、同4人目が横溝實さん(新石川2丁目)。後列左から2人目・大久保正治先生(中川)、同5人目・写真提供者の松本九−さん(美しが丘5丁目)。
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昭和10年4月3日、驚神社の遷宮式
提供:飯島武靖さん(あざみ野)
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氏子こぞっての寄金によって念願の驚神社神殿が完成!
いよいよ神座を新宮にうつす遷宮式が服部宮司、渡辺神官らにより厳かに執り行われました。
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昭和12年2月、山内村村立山内尋常小学校の上棟式
提供:徳江義治さん(荏田町)
建設委員長は村長・松澤丹治さん(写真中央の背広の人。渋沢)。左隣は佐野巡査。ちなみに建築請負業者の契約金は、建坪664坪で、41,250円也。
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昭和12年、村役場の前に並んだ村会議員
提供:横山 博さん(荏田町)
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以下、敬称略。かっこ内は地名で紹介します。
前列右から横山謙次郎(小黒)、村長・松澤丹治(渋沢)、黒沼亀之助(平川)、前村長・横溝与須之助(下谷戸)、黒沼英三(平川)。
後列右から駕篭島章蔵(牛込)、徳江源助(宿)、井上元次郎(渋沢)、石渡金作(柚木)、上杉直次郎(中村)、高橋義貞(小黒)、富田清次郎(宿)、吉村玄治(荏子田)、横山俊郎(小黒)。
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昭和12年4月、県指定の栗のモデル指導林
提供:飯島武靖さん(あざみ野)
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山内村石川字矢指地籍の飯島丑太郎(武靖さんの祖父)家所有の山林1町歩(3000坪は、神奈川県が栗の増産のため雑木に栗の木の枝を接木し植林するモデル指導林の指定を受けました。
前列左は父・又右衛門さん、その右後ろに武靖さん、その右後ろに祖父・丑太郎さん。
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昭和20年1月、未成年の19歳にも召集令状
提供:飯島武靖さん(あざみ野)
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戦局がますます不利になってきた昭和20年1月、19歳になったばかりの飯島武靖さん(タスキ掛けの青年)にも召集令状、いわゆる赤紙がきました。
自宅の母屋前に家族、親戚、隣組、友人が集まり、記念写真を撮ってから入営。幸い、わずか8カ月で敗戦となって除隊しました。
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