校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

画像をクリックすると、拡大されます。拡大後は左上の戻るボタンをクリックしてください

NO.5 戦時中からの住民の暮らし、点描

               戦時中の子どもたち


            農繁期託児所

 昭和14年(1939)、農繁期だけ農家の子どもたちを預かり面倒を見る託児所が山内小学校分校で開かれました
 提供:横溝美代子さん(新石川)







     山内小第一分教場1年生

 昭和15年、山内村の牛込、稗田原、船頭、保木などの児童が3年生まで通学した横浜市山内尋常高等小学校第一分教場の1年生。担任は徳江武治先生。
 山内村は前年の昭和14年に横浜市に編入し、神奈川県都筑郡山内
村から横浜市港北区となりました。
 提供:横溝美代子さん(新石川)


            戦後の人たち


       田植えのお茶うけ

 昭和246月、牛込(美しが丘5丁目)・松本義宗家の田植えのとき。同家の西隣にあった谷戸田の土手で家族がそろってお茶請け。
 右から当主の義宗さん、弟で5男の泰輔さん、当主の妻・清子さん、一人おいて抑留生活のシベリアから帰国した4男の九−さん
提供:松本九一さん(美しが丘)




        平川神社の祭り

 昭和2610月、戦後祭りが復活し活躍していた平川の面々。安藤友之進さん、倉本義光さん、金子伊左衛門さんらが元気だったのが懐かしい。
 提供:倉本 渡さん(元石川町)



            戦後初の演芸会

 昭和2110月、驚神社の祭礼の宵は宮元青年団(下谷戸・中村地区)の演芸会。会場は山内小学校の校庭に舞台をつくってセット。写真はフィナーレのとき  提供:小泉カヨさん(荏田町)

 娯楽の乏しい戦後、青年団による演芸会は顔見知りのお兄さんやお姉さんの出演とあって地域の人たちに非常に好評でした。青年たちも家族や隣近所の人たちの前でミスは禁物と、連夜猛稽古したものです。



   神社みこしの新調

 昭和5710月、神社神輿を新調、宮出しのシーン。
 提供:倉本 渡さん(元石川町)


迅速な伝達手段、有線放送の活況時代

文・写真提供:鈴木 進さん(町田市つくし野)

 
 戦後の青葉区内の交通機関といえば東急大井町線溝の口駅か東横線綱島駅、または国鉄(現JR)中山駅から1時間1本程度のバスしか通らない。通信手段も100軒に12台の電話の普及率。緊急事態が発生しても十数分も走らなければ電話を掛けられない辺鄙な地域であった。

 そんな折、「有線放送電話」なるものが千葉県で発明された。それを有力市会議員が知り、さっそく中里農協で導入。昭和316月のことであった。これを契機にこの地域一帯の農協に瞬く間に普及したのである。



  昭和31年、電柱を建てる村人の勤労奉仕

 村人総出で山内地区の各地に電柱を建て、これに鉄線を張り、各家庭に簡易な電話機を設置するボランティア活動。
 
 提供:鈴木 進さん(町田市つくし野)

 有線放送電話局は山内農協に設置され、放送局兼電話局の機能を発揮して朝5時から夜9時頃まで活躍した。
 「電話の時間」には交換手を通して自由に電話を掛けあい、また「放送」は学校、農協、自治会などの行事や農産物の市況など地域に密着した情報を流した。これで村中のコミュニケーションは飛躍的に改善され、明るい農村の構築に大いに貢献したのであった。












山内農協に設置された有線放送局

手前の人が有線放送指導技師の鈴木進さん。

 その後、NTT電話の普及やテレビ時代を迎えてその役割を終え、昭和40年代に自然消滅、今は、お年寄りの語り草となったのである。

NO.6 へ

TOPに戻る