今でも幼い頃の山内村がときどき叙情的な夢の中に出てくることがある。なかでも早渕川に沿って点在する元石川一帯の個性的な集落名が登場する。
ユニークな地名
江戸から大山街道を来て溝口の次の宿場であった「宿」、今の赤田屋がある辻を左に折れると「柚木」や「渋沢」、辻を直進すると「小黒谷戸」、その右手に「赤田谷戸」。前述の宿に出るずっと手前を右に入ると、まず驚神社を高台に頂く宮元地区の「中村」や「下谷戸」、これらの地名はおおよそ推測で理解できる。
歩を進めると「牛込」「平川」「保木」と続き、平川を左に入って「船頭」「荏子田」。どれもいささか奇妙な地名だ。伝説によれば、かつての246号線に架かる関根橋あたりを境にした水争いに端を発して付けられたようだ。
嫌いだった地名
牛込から右に坂道を上がると、途中に得体も知れぬほど不必要な大きく頑丈な石造りの門柱に出くわし、ここを抜けるといかにもうらぶれた集落「稗田原」に入り込む。私自身はここの育ちだが、子供ながらになんとも貧しげなその地名が無性に嫌だった。そのうえ、この地区は呼ぶ人によってかなり異なり、「ハラ」「ヒエダパラ」「ショウシヤ」とそれぞれで、正式名の「ヒエダハラ」はめったに耳にしなかった。
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太平洋戦争の名残
それにしても、前の二つは分からないでもないが、「ショウシヤ」は陸軍の「廠舎」の文字が当てはまるか分からないが、違い過ぎはしないかと思われるだろう。
ところがこの名前と第2次世界大戦がまったくの無関係でもなく、戦後も多分に戦争の名残がある場所であったのだ。
今の新石川3丁目、国学院大学のある一帯は旧陸軍の射撃場だった。子供の頃、このあたりの小川で魚捕りをしていると薬莢(やっきょう)がジャラジャラ出てきたものだ。
じつは、この兵士らの宿舎は稗田原に6棟長屋で建っていた。その半分の3棟は、戦後6・3制の義務教育に伴う中学校の校舎建設が急務となったとき、現山内中学校の校舎として開校することができた。この長屋のほかに司令官の宿舎、自動車修理工場、さらに100メートルもある3棟の住人長屋や終戦後も実家に帰ることもできない元兵士が銃を持つ手を鍬に持ち替えた“帰農隊”の宿舎もあった。
山内中学校の子供たち
荏田、石川地域一帯の子供たちの学びと思い出の場であった山内中学校。風の日は砂塵を巻き上げる荒涼の地から、もう幾千の少年少女が世に巣立ったが、母校のあったここの地名が「稗田原」だったなど、果たしてどれほどの数の子供たちが知っていただろうか。
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