編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 
NO.905 2017.03.03  掲載
昭和63年11月発行『とうよこ沿線』44号「土地っ子昔ばなし」から
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 話す人:田中正光さん(大田区東雪谷3丁目)
  聞き手:岩田忠利



    大正・昭和初期の東雪谷


 私たちの子供の頃の雪谷は、たくさんの雪が降り、竹馬に乗って学校へ行くほどでした。
 山坂が多い谷合の町、雪谷は、冬になると高台は寒風が吹きつけ、低地は日陰が多く、たいへん寒い所でした。

雪谷≠ニいう地名は、そんな点からつけられたといわれています。



昭和35年(1960年)の雪谷。呑川の左側は東雪谷、右側が南雪谷

提供:横沢種苗(南雪谷



      Part.1  明治時代から大正時代へ


     話す人:田中正光さん

大田区東雪谷3丁目在住。雪谷地区町内連合会・会長
大正元年生まれ・
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  造り酒屋と田中坂″

 私ども田中家の大本家は、現在の雪谷小学校の向かい側と呑川の“雪の橋”をはさんだ所にありました。そこで文久年代から明治中期までこの付近の農家から集めた米で酒を造る造り酒屋≠営んでおりました。

当時、武蔵国荏原郡には3軒の造り酒屋があったそうです。戦後、世田谷区に広川広禅という代議士で農林大臣をやった人がおりましたが、その広川家。大森にあった田中という家。それに私どもの家。大森の田中家は火災に遭って廃業しましたが、私どもは明治ちょっと前に幕府の割り当ての年貢が納めきれず、幕府から弾圧を受けてやめたということです。




 その後、私どもでは中原街道のNTT雪谷電報電話局の先、大岡山へ行く道の角で“よろずや”を始めたのです。その明治の初めの頃、私どもで切り開いた坂ということで、あの坂が「田中坂」と呼ばれていました。



昭和37年の田中家母屋

明治初期建築、建坪50坪

 脱走兵らを逮捕する憲兵所

 昨年99歳で亡くなった叔父の話によれば、唄の雪谷甚句″にでてくる憲兵所は、中原街道に面した現在の大和銀行雪ケ谷支店の所にあったそうです。ここは憲兵の駐屯所で、兵役をいやがって逃げる若者を取り締まったり、軍隊から逃げ帰る脱走兵たちを捕えたりする憲兵たちの詰め所でした。もちろん、日清・日露戦争の明治の頃のことでした。



      Part.2  大正時代の思い出


 電燈・自転車、事始め

 雪谷に初めて電燈がついたのは、私が生まれた大正初期だったと思います。

 子供の頃、私もほや(ランプの火を覆いかぶせるガラスの筒)掃除をやりましたよ。広い家の中に薄暗い電燈が2本だけで、どうしてもランプが必要でしたね。

 自転車が走り始めたのも大正初期。
 私が小学校高等科に入学した記念に父に自転車を買ってもらった記憶があります。当時お菓子屋がこの近所に一軒もなくて、中原街道を自転車で走って荏原警察(品川区荏原6丁目)の近くの「大久保団子」という店まで買いに行きましたよ。
  あの辺は、関東でも有名なタケノコの産地で昼でも暗い竹林がどこまでも続いていました。

自転車といえば、大森の方から自転車の荷台に魚をつけた魚屋さんが、たまに行商に来たのを覚えています。


  2カ所の氷場(こうりば)

 冬場の寒さと谷合いの地形という条件の中で天然の湧き水を利用して氷を作る天然氷の採集場、いわゆる“氷場”というのが、雪谷には2カ所ございました。


 1カ所は、南雪谷1丁目の宮崎照義さんの家で現在の南雪谷1丁目15番あたり。もう1カ所は、道々橋のすぐ近く、久が原1丁目5番の醍醐康之さんの父親・尚周さんが水神様の湧き水を使って氷を作っていました。
 氷場は、北側の寒い場所に板やコンクリートで囲いを作り、その中に湧水を入れて凍らせて氷にします。 この氷場の経営は、昭和初期まで続いていた、とその家族から聞きました。

  水車小屋は4カ所

 昔の呑川は、曲がりくねって川幅も狭く、深さも子供の膝下くらいと浅かった。また、水害の多いことで有名でした。
 雪谷地区を流れるこの呑川には、
4つの水車小屋がありました。石川橋のちょっと上流に石川町の鈴木さんが、そしてその石川橋のたもとで山久という酒屋さんがやっていました。もう2つは東雪谷5丁目の永久保曽兵衛さん(当主・宣義氏)の水車と、道々橋の樹林寺の裏、小原厚さん(当主・正久氏)のもの。

 水車
では収種した米を精米したり大麦をひいたり、小麦を粉にしたりしたのです。






   Part.3  震災と昭和初期の池上線開通


近郷近在お店は6軒

 池雪小学校に通っていた大正時代、店といえば学区域には酒屋が6軒、牛乳が飲める牧場が3軒でした。酒屋といっても、酒類だけでなく饅頭(まんじゅう)でもなんでも売っている店。中原街道面に富田屋、池雪小の近くに幸池屋、道々橋に半亀屋、小池に角屋、上池上に萩原屋、そして洗足池のそばに金七がありました。

 石川台駅から私どもの家までは、鎮守の森の雪ケ谷八幡と洗い場があったくらいで何もなかったですね。その洗い場は現在のソバ屋雪乃庵(東雪谷2丁目29番)の裏、永久保栄太郎さんの家の前。斜面の湧水を利用した20坪ほどの池です。そこでネギや大根などの野菜を洗い、それを翌朝束ねて市場へ持って行くのです。

  農地の賃貸しと分譲住宅地

 この雪谷が変化し始めたのは、大正129月の関東大震災以後からでした。震災で焼け出された人々が、都心から郊外へと新天地を求めてやってきた。とくにこの辺に移り住んだ人は、港区の住民が多かったようですが……。

こうした人々に宅地を供給するために農地を貸し出したのは、私どもが一番早くて昭和2年4月からでした。「漬け菜を作っているより経済効率がいい。100坪単位で貸したほうが楽儲け″だ」と。それから、近所のどこの農家でも農地の坪貸しを始めたのです。



 雪谷地区の耕地整理は、昭和6年から9年まで行われました。その後、最も早い分譲住宅の売り出しは、財団法人同潤会のもので、南雪谷の紅葉ヶ丘と東雪谷の荏原病院前方右側の一帯。どちらも一軒当たり100坪以上の宅地でした。

  希望ケ丘商店街の原形

 池上線は大正12年に蒲田から雪谷駅まで開通し、その4年後の昭和2年に石川台駅(当時は石川駅)を通って大崎まで、最後に五反田までの全線開通したのが翌3年6月のことでした。この雪谷の農村地帯に徐々に住宅が建ち、人口が増えだしたのは、それ以降でした。

 それで開通の早かった雪谷駅(現雪が谷大塚駅)周辺の南雪谷は大正14年ごろから、石川台駅周辺の東雪谷は昭和45年ごろから、と住宅の建ち始めに少しズレがありましたね。
 住宅が建つと、それを追い駆けるように昭和10年頃、商店がポツポツと……。現在の希望ケ丘商店街の原形は当時の56軒の店でした。

 私の子供の頃から約70年、東雪谷の人口だけでも3万人になり、住環境は信じられないほどガラッと変わりました。これだけの急激な変化が私の一代だけで起きたわけですねえ。
 次代は、どんな時代になるのでしょうかねえ!





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